クリスチャンと「歴史」の関係

2015年2月8日日曜日

キリスト教信仰

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 通信制学習が一段落したので、長崎旅行に来た。

 長崎にしたのは未踏の地だったから。あと、いわゆるキリシタンの歴史にちょっと触れたかったから。それで浦上天主堂、大浦天主堂、島原城など回った。と言ってもあくまで観光メインだったけれど。

 べつに歴史に触れるだけなら現地に行く必要はないけれど、現地で記念碑とかパンフレットとか見ることで、26殉教者のこととかプチジャン神父のこととか、コルべ神父のこととか潜伏クリスチャンのこととか、それまで何となく知っているつもりだったことを再確認することができた。
 良いも悪いも含めて、そこにはイロイロな歴史がある。

 歴史を知り、先人を尊敬するのは現代人にとって大切だと思う。先人の偉業は励みになり、その失敗からは学ぶことができる。歴史から学ぶのは人類の進歩とも関係がある。

 ウソか本当か知らないけれど、フグの毒の部位を特定するために多くの犠牲が必要だったと聞いたことがある。フグのある部分を食べた人が死んだら、次の人は別の部分を食べる。その人も死んだら更に次の人がまた別の部分を食べる。そういうトライ・アンド・エラーの繰り返しが現在のフグ料理を可能にしたという。

 その話の真偽はともかく、歴史の重要性を現しているのは間違いない。

 振り返って現代のクリスチャンを見てみると、一つ上の先輩たちに対してでさえ尊敬の念を抱けない現状があるように思う。

 年輩の牧師を見て、「大して教勢を広げられなかった」「やり方が古いんだ」みたいなことを平気で言う若手牧師がいる。そう言う自分たちがどれだけ革新的なことができたのか怪しいけれど、口だけは達者だ。
 それで「(先代から続いている)日本の閉塞感を打ち破る」とか言い続けて少なくとも10年は過ぎているのだから、彼ら自身、次世代から「何もできなかった」とか言われかねない。

 先人たちが何もできなかったか、間違いがあったか、非があったか、ということを厳密に追求すればもちろんイロイロ出てくるだろうけれど、少なくとも教会を維持したとか、信仰を守って継承したとか、クリスチャンとして時代を生き抜いたとか、何かしら達成したことはあったはずだ。そういう苦労を無視して「先輩たちはできなかった。自分たちこそやってやる」と意気がるのは、単に歴史に学ばない愚か者だ。フグの話で言えば、先の人と同じ部位を食べて死ぬのと同じだ。それこそ犬死にであろう。

 実際に聞いた話だけれど、戦国時代のある地域に「リバイバリスト」がいて、大いにクリスチャンが増えた時期があった、と主張する牧師がいた。けれどそのリバイバリストは結局「踏み絵」に屈してしまい、その失敗とともに祝福を逃し、不幸な晩年を送ったという。「だから現代の私たちは踏み絵を踏むような信仰的妥協をしてはならない」というのがその牧師の結論だった。

 つまり先人が失敗したから、私たちは失敗してはならない、というような話だ。

 けれどその牧師も同じような失敗をして、今は見る影もない。ついでに言うとその「リバイバリスト」の話も出所不明で、どうやら作り話だったようだ。

 先人を否定してバカにするのは簡単だ。その苦労を実際に見ていないのだから、何とでも言える。けれどそこには当事者なりの事情があったはずだ。それに彼らは、私たちがまだ終えていない人生を終えている。あるいはずっと長く生きている。その意味で私たちがまだ達していないところに達しているのだから、それだけでも尊敬に値すると私は考える。

 夕日に映える大浦天主堂を見上げながら、そんな「歴史」に思いを馳せた長崎旅行であった。

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