クリスチャンと「預言」の関係

2015年2月1日日曜日

「預言」に関する問題

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 超教派の集会(と言ってもザックリ言って聖霊派の集まりだけれど)に行くと、時々「預言」らしきことが語られる。海外からの「神の器」とか「ミニスター」とかがメッセージの最後、「日本の為に特別なメッセージがあります」とか言って、荘厳な雰囲気の中、感動的な語り口で語り出す。こんな感じだ。

「日本に新しい季節がやってきます・大いなる変革が訪れます・未だかつてなかったような祝福で日本が覆われます・大いなる収穫の時がきます」などなど。

 語られる会衆側はみんな目を閉じて、ウンウン頷いたり、アーメンとかハレルヤとか言ってみたり、手を挙げたり、眉間にシワを寄せて嘆息したり、まあとにかく感動している。そして「日本にもきっとリバイバルが訪れるんだ」という希望を胸に会場を後にする。「今日の集会、とっても恵まれましたね」とか言いながら。

 上記の一コマだけ切り取ってみると、別段問題を感じないかもしれない。けれど実は、集会毎に同じようなことが繰り返されている。もちろんまったく同じメッセージが語られる訳でなく、まったく同じ「預言」が語られる訳でもないけれど、どの集会に行っても毎回似通った話を聞くのは間違いない。

 平たく言うと、「日本にすごいことが起こる」という意味の「預言」がどの集会でも語られるのである。

 クリスチャンになったばかりの人がそれを聞いたら感動するかもしれない。「これから日本は変わっていくんだ」と期待するかもしれない。けれど10年20年、あるいはそれ以上クリスチャンをやっている人からすると事情が変わる。もうその手の話を何十年と聞いてきたからだ。

 毎年毎年、超教派集会ですごいことが語られる割に日本のキリスト教界では何も起こっていない。むしろ教会の高齢化が進み、牧師の数も不足し、徐々にしぼんできているような気がする。としたらそれらの「預言」はいったい何なのだろうか。

「預言は励ましだ」とある人は言う。たしかにそういう面もあると思う。
 けれどたとえば末期癌患者に「今年こそ治療薬が見つかるさ」と励ますのは有益かもしれないけれど、それが10年20年続いたらみんな死んでしまう。何らかの励ましにはなったかもしれないけれど、結局のところ「儚い夢」でしかなかったことになる。

 では神様が与えるという「預言」は、実現することのない「儚い夢」でしかないのだろうか。

 と書くと「約束の成就を忍耐して待つべきです」という意見が出そうだ。けれどそもそも、上記の「日本の為の特別なメッセージ」を聞いてみると、どれも曖昧で抽象的で、結局何が起こるのか、どう変化するのか、全然わからない。それが実現したのかどうか、誰にも検証できない。「大いなる祝福が訪れる」とか荘厳に言われても何の具体性もないから、それが本当に起こったのかどうか確認しようがない。だから忍耐して待つにしても、何を待ったらいいのかわからないのではないだろうか。

 そういうのを神からの「預言」と言うのは、神様が曖昧で思わせ振りな方だと言うのと同じだ。 

 しかしそういう「預言」を聞いて、上記のように感動してしまうクリスチャンがとても多い。何年も似たような話を聞き続けてきたことに気づいていない。あるいは気づいていても何の疑問も感じていない。むしろ何も起こらない現状を「悪霊のせいだ」とか「日本のクリスチャンの祈りが足りないからだ」とか「もっと聖霊様の傾注が必要なんだ」とか言いきって憚らない。その発想は神様を無力にするのと同じなのだけれど。

 だから「預言」を聞くときは感動ありきでなく、アーメンありきでもなく、ちゃんと吟味する姿勢でなければならない。おかしいと思うことにはおかしいと言わなければならない。でないと結局、「儚い夢」を見続けたまま人生終わらせることになってしまう。そしてそれは間違っても「忍耐の人生」でなく、「浅はかな人生」でしかない。

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