「正しさ」は「傲慢」にもつながるという話。

2015年1月6日火曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 このブログでは、主に聖霊派教会の信仰の在り方の問題点を指摘している。そしてできれば聖霊派の方々に読んでいただいて、ああそういう見方もあるのだな、可能性もあるのだな、と考えていただきたいと思っている。

 内容は体系的にまとめていないけれど、記事ラベルの通り多岐に渡っている。けれど時々(本当に時々だけれど)、擁護的な立場に立って書くこともある。たとえばチャーチスクールは問題が多いけれど、その全てが完全に間違いだとか、絶対的に悪いだとか言えない部分がある(むしろ良い点もあるだろう)。また什一献金にしても、騙されてでなく純粋に信仰から捧げる人もいる訳で、それに対してノーと言う権利は誰にもない、というようなことだ。だから間違いが多いとしても全部ではない、というのが私の立場だ。

 けれどそういう風に擁護的に書くと、いやいや間違っているものは間違っている、ダメなものはダメだ、と言う人がいる。それはそれで自由だけれど、それもまた二元論に陥っているのではないだろうか。繰り返すけれど物事に完全な間違い、あるいは完全な正解というのは少ないからだ。数学の問題なら答えは一つだから二元論でいいだろうけれど、たとえば聖書解釈はそうはいかない。聖書にただ一つの明確で正しい、絶対間違えようのない解釈があるのなら、キリスト教が多数の教派に分かれる必要はない。一つの正しさに従って一つの宗教としてまとまれるはずである。けれど現にそうなっていないのは、完全に正しいとも完全に間違っているとも言えない解釈(あるいは立場)が複数存在するからだ。

 だから「これはおかしい」と断言できることは少ない訳で、問題を指摘するにしてもよくよく考えなければならないし、偏見を持ってはいけないのだと思う。むしろ「これもいいし、あれもいい」という寛容さが必要ではないだろうか(だからと言ってじゃあ何でもいいのかというのは極論だ)。

 それで私が「これはおかしい」と断定的に書くのは主に信仰的虐待と、その根拠となる聖書解釈についてである。聖書にこう書いてあるから、という理由で訓練と称する暴言・暴力が横行し、望まない奉仕をさせられる、というような理不尽についてだ。
 それは法治国家における宗教に隠れた不法行為であり、決してあってはならないことで、神様を貶めることでもある。だからおかしいと私は書き続けているのである。

 だから聖霊派教会が全ておかしい、そんなところに献身するのはバカだ、とは言えないはずだ。現にそういう教会で、誰に迷惑をかけるでもなく、損害をかけるでもなく一生過ごす人もいる。私自身はそういう人生は遠慮するけれど、否定するつもりはない。むしろその一貫性を尊敬する。

 そういう人に向かって「あなたはバカだ、人生間違っている」なんて言えるだろうか。言うのは自由だけれど、じゃあそう言うあなたはどれだけ「正しい」人生を送っているのか。あなたのそれも見方を変えれば間違っているのではないのか。と私は思う訳である(もちろん私にも間違っているところはあるだろう)。

 聖書は私たちに「正しすぎてはならない」と言っているし、「いけにえよりも憐れみを好む」とも言っている。もちろんカルト的牧師の信徒虐待は許してはならない。けれどそれと同じ厳しさと自分が思う「正しさ」を持って、キリスト教の全てを切り分けるのはいささか傲慢というものだろう。

追記)
 聖霊派と言ってもペンテコステ派とかカリスマ派とかイロイロあり、たぶん一部に福音派も混ざっていると思う。統一されたカテゴライズがある訳でもなく、かなりザックリで曖昧な表現になってしまって恐縮である。

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