クリスチャンと「癒し」の関係

2015年1月31日土曜日

「癒し」に関する問題

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 神様が今も「癒し」を行うかどうかについては、同じクリスチャンでも教団教派によって立場が分かれる。両者が議論したら永遠に平行線をたどることになると思う。

 ここでよく取り上げる聖霊派は、現代の「癒し」をかなり積極的に肯定している。以前も書いたけれどこんな感じだ。
「アフリカでは癒しがバンバン起こっている」
「アメリカの〇〇聖会では病人が癒されまくっている」
「東南アジアでも奇跡的な癒しが起こり始めた!」

 なぜか全部海外の話で、日本ですごい「癒し」が起こったという話はほとんど聞かない。個人的には聞いたことがあるけれど、あくまで「聞いた」だけであって、事実関係は確認できていない。

 たとえば、「すごい癒し」ではないけれど、こんな話がある。
 長年腰痛がひどかったけれど、〇〇先生に祈ってもらったら骨盤の歪みを指摘された。それで座って両足を伸ばしてみたら、本当に脚の長さに左右差があった。けれど〇〇先生に祈ってもらったら瞬間的に左右差がなくなり、腰痛が楽になった(気がした)。ハレルヤ!
 という。

 これはけっこう聞く話である。ということは日本では、神様は骨盤の歪みによる腰痛だけは積極的に癒される、ということだろうか。他の病気はさほど癒されないのだろうか。腰痛にご利益のある神様なのだろうか。

 ちなみに、脚の長さの左右差はほとんどの人にある。それと脚の長さは座った状態では測らない。元々の姿勢の歪みや座る時のクセ、お尻の筋肉の左右差などが影響して、正確に測れないからだ。脚の長さは通常うつぶせで、訓練を受けた人が測る。
 だから座って測ると、長さの左右差はその時々によって変わってしまう。差が大きいこともあれば小さいこともある。それに祈る時間、意図的に片方の足が引っ張られていれば、徐々に姿勢が変わって一時的に伸びて見えることもあるだろう。

 そういう知識がないと、純粋な人は「脚が瞬時に伸びた」と思い込んでしまう。だからこの「脚が伸びる祈り」は、言葉が悪いけれど、手品好きが定番として披露する手品に似ている。簡単にできてよく驚かれる。

 現にこの「祈り」で腰痛が治ったという人も、そのうちまた腰痛を訴えるようになる。そして同じ「祈り」を受けて「また治った!」というのを繰り返す訳である。それはほとんどプラセボ効果的な現象であって、「癒し」とは言い難い。だいいち本当に癒されたのなら、すぐに再発するなんてことはないだろうに。

 というわけで聖霊派の皆さんは「癒し」が現代も起こると真面目に信じている向きがある。べつにそれを否定しようとは思わない。本当にあるかもしれない。
 けれど上記のような「検証不能な海外のすごい話」とか「脚が伸びるトリック的な祈り」とかを見ると、なんだかすごく怪しく思えてくる。

 でもマジメに信じる人は信じる訳で、やはり真剣に「癒し」を求めている。特に深刻な病気を抱えている方にとっては切実な問題である。それでもっと長時間祈ったり、「癒し」関連の書籍を読み漁ったり、「癒し」の集会に足しげく通ったりする。けれど現実には癒されない。でも「癒し」はあると信じているから諦めない。牧師も信徒も応援して祈ってくれる。それでまた新しい「癒し」に飛びつく、ということを延々繰り返すことになる。

 それでも癒されないとどうなるか。彼らにとって神様は癒しを行う正しい方なので、癒されない原因は神様でなく自分自身にある、と考える。何か罪があるのか、祈りが足りないのか、何か特別な行為が必要なのか、というような発想になる。
 それで「癒しのミニスター」に触れてもらったハンカチを後生大事に持ってみたり、「家系の呪い」を断ち切ってみたり、「病の霊の結界」を断ち切りに行ったり、みたいな奇行に走ってしまう。

 よく聖霊派の牧師は、「癒しには祈り手の信仰と受け手の信仰の両方が欠かせない」と言う。どちらが欠けても癒しが起こらない、という訳だ。けれど聖書を見ると、必ずしも信仰のある人が癒されるのではないことがわかる。それは恵みであって、受けるに値する人が受けるのではない。

 だから「癒し」を信じて果てしない奇行に走ってしまうクリスチャンは、まずそのへんの聖書理解から考え直す必要がある。
 またそれだけ「癒し」を求めているなら「長血の女」の話は当然知っているだろうけれど、この長血の女が自分自身であり、彼女を長年苦しめてきた医者たちが上記の牧師たちであるということに気づくべきだと私は思う。

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