クリスチャンと「偶像崇拝」

2014年12月8日月曜日

「偶像崇拝」問題

t f B! P L
「偶像崇拝」というのがあって、キリスト教では禁止事項となっている。有名な「十戒」の一つでも
あり、聖書の他の箇所でも繰り返し注意喚起されている。
 
 意味はすなわち「神以外のものを拝むこと」で、イスラエル人が拝んだ「金の子牛」とか「バアル」とか「アシェラ像」とか、そういうのがわかりやすい偶像の例である。
 聖書を読むと、繰り返し禁止されているにもかかわらず、イスラエル人がすぐ偶像崇拝に走っているのがわかる。だからそこには何らかの魅力があるのであろう。クリスマスも初詣もイベントごとになっている日本では、イマイチわかりにくい魅力だけれど。
 
 けれど新約聖書には「偶像崇拝=むさぼり」という表現もあって(コロサイ3章)、わかりやすい形の偶像以外にも、私たちの中には何らかの「偶像」が存在すると示唆している。
 
 福音派・聖霊派あたりはこの部分に特に注目している。そして「神以外のものを優先すること、あるいは神以上に大切なものがあること」が、すなわち偶像崇拝だと言う。だから私たちの身近には常に数多くの偶像があり、私たちはいつも偶像崇拝の危険に晒されている、警戒しなさい、という話になる。
 
 実際に見聞きした事例を挙げるとこんな感じだ。
「テニスが好きでよくやっていたが、ある時、それは偶像崇拝だと神様に示されたので、キッパリやめた」
「ギターを弾いて賛美することが好きだったけれど、それがいつの間にか(自分の中で)偶像になっていた。このままではサタンと同じ過ちを犯してしまうと感じ、悔い改めてギターの奉仕をしばらくやめた」
「あるマンガが好きで発売日ごとに買っていたけれど、それをやめられなくなっている自分に気づいた。これは偶像崇拝だと思ったので、断ち切った(マンガを捨てた)」
 
 他にも沢山あって挙げきれない。私にも同じような経験がある。
 
 じゃあそういう「偶像」を切り捨てていくと、どうなるか。たぶん「クリスチャンの禁止事項(?)について・その2」でも述べたような姿になる。すなわち「毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。『汚れた』一般社会とは、一切接点を持たない」
 つまり「キリストには変えられません」という賛美歌で言うところの、「世の楽しみよ 去れ」だ。

 けれどそこまでしてはじめて「偶像崇拝」を避けられるとしたら、その代償はあまりに大きいのではないだろうか。

 確かに「貪欲=偶像崇拝」と聖書は言っているから、単純に仏像を拝むことだけが偶像崇拝ではない。自分の欲にかられて何かをむさぼることは貪欲の罪となる。しかしテニスを好んでプレイすることとか、好きなマンガを全巻そろえることが、そのまま貪欲に直結するというのは短絡的ではないか。それはいわば「行き過ぎた禁欲」であって、偶像崇拝とは別の問題の気がする。

 でなければ、クリスチャンは「この世」を捨てて、人里離れた山奥でひっそりと暮らさなければならなくなる。清貧、労働、そして祈り、という訳だ。
 けれどそれだと、クリスチャンに課せられている伝道という使命をどう果たせばいいのだろうか。極端に走っている気がしてならない。

 それにもし本当に山奥に隠居したとしても、真の問題解決にはならない。貪欲は人間の心の中にあるからだ。それはどこに隠れてもついて来る。山奥には山奥の貪欲があり、都会には都会の貪欲がある。教会には教会の貪欲がある

 すなわち、「私はこれだけ神に仕えている」「私はこれだけ祈っている」「私はこれだけ断食している」「私はこれだけ・・・」という「きよさ」に関する追求そのものが、そしてそれによって称賛を得たいという願望そのものが、貪欲なのではないだろうか。

QooQ