「神様を賛美したいから献金して下さい」という(?)な話

2014年12月29日月曜日

キリスト教信仰

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 教会の若い信徒とか神学校の生徒とかが、「神様を賛美するビジョンが与えられました」と言ってバンドを結成することがある。それでバンド活動を始めるのかと思うと、まず「楽器がないから献品を募ります」とか「活動資金を募ります」とかいう呼びかけから始める。納得してしまいそうだけれど、いやいやちょっと待てよと偏屈な私は思ってしまう。
 
 教会に集う若者とか神学生とかは(大抵は)金銭的余裕がないから、やりたいことがあっても思うようにできない、という状況はあると思う。だから何かしたかったらまず先立つもの用意しなければならない、というのはよく理解できる。
 
 けれど、たとえばこの「神様を賛美したい」というケースの場合、まず自分たちにできる「賛美」から始めることはできないのだろうか。楽器がないならちょっとバイトして安いのを買えばいい。初めから良い楽器が全部揃っているとか、スタジオがあるとか、活動の場があるとか、そういうお膳立てがなければ始められないという道理はない。それこそアカペラとか、安いギター一本とか、教会堂にずっとあるピアノ一台とかでも、練習すれば賛美はできる。フルオーケストラの賛美もアカペラだけの賛美も、神様の前ではきっと同じだろうに。
 
 だから上記のような「呼びかけ」になってしまうのは、「こういうバンド構成でこんな場所でこんな演奏がしたい」というような自分たちの願望が初めから混じっているのではないだろうか。彼らの頭の中にある「神様を賛美したい」は、何もない、およそ賛美できるような状況でない時でもとにかく賛美したいみたいな、ハングリーなものではない気がする。
 
 まあそれぞれに事情や思いがあるだろうから、一概には言えないけれど。
 
 ところで「神様を賛美したい」と聞くと、私は数年前に知り合ったアジアの若いクリスチャンたちを思い出す。
 東日本大震災の後、外国人クリスチャンがたくさん被災地支援に駆けつけてくれたけれど、彼らもそういう善意の人々だった。私はたまたま彼らと数日間一緒に過ごすことになった。彼らは出会った時から「賛美が好きです」と言っていたけれど、東京―仙台間の車中も、支援活動の合間も、自由時間中も、とにかく暇さえあれば歌い出す程であった。彼らにとって歌うことは息をすることのようであった。もちろん誰かに強いられてでなく、虚栄を張ってでもなく、ただそうしたいからしている、という感じだった。
 
 彼らに冒頭の「賛美したいから〇〇下さい」を聞かせたら、「え、賛美したいならすればいいじゃん」とあっけらかんと言いそうだ。うん、確かにそうだと私も思う。

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