「イエス様のマジな弟子」って何なのだろう

2014年12月26日金曜日

「弟子訓練」の問題 教育

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「イエス様のマジな弟子を作る」のを目標にしている聖霊派教会がある。

 多くの若者を救いに導いて、イエス様の本当の弟子にして、日本や世界を福音化していくのだ、みたいなキレイな理想を掲げている。それが実現してくれれば良い。けれどいわゆる「弟子訓練」を掲げる教会はそういうことを言い出してもう何十年にもなる。当時の若者はもう中年以降で、その年代のクリスチャが爆発的に増えているかと言うと、逆だ。短い歴史でもちゃんと振り返っておかないと、先人の二の舞、三の舞になる気がするけれど、どうなのだろうか。

「イエス様のマジな弟子を作る」のが第一の目標なのか第二の目標なのか知らないけれど、第一でないことを願う。なぜなら教会は第一に神様を礼拝するところであってほしいからだ。彼らはもちろん、「自分たちは礼拝を優先している」と言うだろう。けれどその実態は言葉だけではわからない。イロイロきれいなことを言っても、結局のところ弟子訓練とか事業とかがメインになっているかもしれない。

 以前にも書いたけれど、毎週の礼拝が事業を建て直すための会議みたいになっている教会はその典型だろう。自由に礼拝するために始めたはずの事業が行き詰まり、それを建て直すのに忙しくて、礼拝どころでなくなる。本末転倒という言葉の文例として、まさに持ってこいのシチュエーションではないか。とても礼拝優先とは言えない。

 また礼拝優先にしても、「礼拝はどこででもできる。一人でもできる。究極的には何もいらない」とか熱心に言う牧師が、同時に「新会堂を建設すべきだ。最高の神様なのだから最高の施設で礼拝しなければならない」とか言って、思いっきり矛盾していることがある。だから「礼拝を優先している」という言葉は言葉、実情は実情で区別して見極めないと、おかしなことになってしまう。

「イエス様のマジな弟子を作る」という目標そのものにケチを付ける気はない。けれど教会にとって都合のいい弟子を作ることが実質的な目的になっているとしたら、それは「イエス様のため」ではない。その弟子というのは牧師の言うことを聞く弟子であって、本当に聖書に従うかどうか、かなり怪しいからだ。

 弟子訓練が盛んな教会があって、十代の若者たちを弟子にしていた。ほとんどが18歳未満である。まだ親の保護下にある子たちだけれど、訓練訓練、奉仕奉仕の毎日で、家に帰るのはほとんど寝るためだけ、という状況であった(チャーチスクールだからそれも可能だった)。それだけ濃密に過ごせば当然だけれど、彼らと牧師との信頼関係は非常に強かった。けれど肝心の親は蚊帳の外だった。子供がどこで何をしているのか、親はほとんど知らない。疲れて帰ってくるから聞くに聞けない。これも神様のため、と思って見守るしかない状況だった。

 まあ子供は子供なりに失敗したり苦労したりしながら成長するもので、いつまでも親の過干渉の下にいるべきではない。特に十代後半ともなれば、言葉は悪いが放っておくくらいが丁度いい。時々話を聞くとか、それとなく方向性を示すとか、せいぜいそんなところだろう(と私は個人的に考えている)。

 けれど上記の教会の問題点は、ほとんど牧師が若者たちの親代わりとなり、過度に干渉し、親には触れさせない、という状況にあった。現に進路を決める時など、子供は牧師と相談するだけで決めてしまい、親には事後報告するだけであった。
 もちろん進路は自分で決めるものだけれど、それにしたって親を無視していいはずはない。実際にお金を出したり細かいサポートをしたり、何かあった時に責任を取ったりするのは親なのだから。

 他にも、たとえば連日奉仕をしている子供の疲労を心配した親が、「今日は休みなさい」と言う。すると子供からは「親はわかってくれない」と言われ、牧師からは「不信仰だ」とか「子供の気持ちがわかってない」とか言われる。ただ子を想う親の気持ちが、ここでは完全否定され、悪とまでされてしまう。

 その子供たちを弟子と呼ぶなら、それは牧師の弟子である。キリストの弟子ではない。なぜなら後者は親を敬うはずで、無視するはずがないからだ(ここで「どんな親でも敬えとは聖書は言っていない」という反論があるかもしれないけれど、このケースで言えば、親は皆立派なクリスチャンなのである)。

 だから「イエス様のマジな弟子を作る」と言っても、その実質、その結果をよく見なければならない。「イエス様のために」と言っても牧師の言うことしか聞かない弟子になっているなら、それは「イエス様のため」ではない。ただ牧師の都合のためだけだ。
「イエスのマジな弟子」という言葉は響きが良く、格好良く思われるかもしれない。けれどそれは人一人の人生に関わる話であって、響きとか格好良さとかで決めるものではない。完全に反対するつもりはないけれど、よくよく注意しなければならない、と私は思う。

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