クリスチャンと「悔い改め」の大事な関係

2014年12月22日月曜日

「悔い改め」の問題

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 引き続き、クリスチャンと謝罪について。
 
 クリスチャンの謝罪は「悔い改め」と密接に関係している。たとえば人に対して罪を犯してしまった場合、まず心の中で悔い改めて、その結果として相手に謝罪する、というのが一般的な筋道だからだ。この場合悔い改めと謝罪はセットになっていて、どちらが欠けてもならない。謝罪のない悔い改め、悔い改めのない謝罪は誠実とは言いがたい。
 
 そして悔い改めというと、思い出しても楽しくない、けれどその本質について考えさせられる、ある事例がある。
 
 ある牧師が大きな問題(罪)を起こし、こっそり続けて楽しんでいた。けれど発覚した。決定的な証拠があった。信徒らに呼ばれた牧師は初めトボケて、貴重な時間を潰してどうしてくれるとか脅していたけれど、証拠があるとわかった途端、泣きと謝罪に切り替わった。
 
 すっかり観念したかに思われた。けれどいわく「今進めているプロジェクトだけは、神様の大事な御心だから成し遂げたい。これは自分がいなければ進まない。今やめたら大勢に迷惑がかかってしまう」とのこと。結局、なし崩し的にその活動だけしばらく続いた。
 
 牧師は関係者(というよりそれを知っている人たち)に謝罪して回った。そして信徒が見ているのを知っていて長時間うめき苦しんだり、泣き続けたり、そういう「俺は苦しんでいる」アピールを続けた。
 
「アピール」と書いたのは、それが本心からの謝罪でなかったからだ。
 
 第一に、牧師が謝罪に回ったのは事実を知る少数の人間だけだった。もっとも肝心な、もっとも被害を受けた人たちを放置した。交通事故で言えば、目撃者に一生懸命謝って被害者に何もしないみたいな感じだ。
 第二に、そうやって悔い改めに回った後も、同じ罪を続けているのがバレた。謝っても行動を改めないのは、「悔い改めのない謝罪」と言う。

 つまり事実を知る人間に徹底的に悔い改めの姿勢を見せておき、「でも個人の名誉は守られるべきだ」という話で、もうそれ以上話が広がらないように目論んだのだ。それは悔い改めでなく、悔い改めを利用した隠蔽工作である。信徒を痛め付けただけでは飽きたらず、さらに都合よく事を運ぼうとした訳だ。
 
 という訳で、それは悔い改めでもなければ謝罪でもない。
 だから教会で誰かが悔い改めたとか謝罪したとか言ったら、それがちゃんと筋の通ったことなのかどうか、周りの人間が検証すべきだ。形ばかりの悔い改め、形ばかりの謝罪では被害者が救われないばかりか、当の本人にとっても良くない。
 
 このケースのもう1つの論点は、「牧師として不適格と判断されても、現在進行中の仕事だけはある時点まで続けさせて良いかどうか」だ。
 上記の牧師の言い分をまとめると、
 
①それは大事な御心のある仕事で、
②自分にしかできない部分があり、
③今止めると大勢が迷惑する。
 
 ということだ。これは熱心なクリスチャンにはけっこう説得力のある主張かもしれない。けれどこの主張には、多数のためなら少数を犠牲にしてもいい、という心理が働いている。なぜなら牧師の罪によってひどく傷つけられた人たちがいて、その人たちからしたらもう牧師なんて信用できないし、「世のため人のため」とか言ってほしくないし、そもそも牧師を辞めてほしいとさえ思っているのに、当の牧師は大義のために働き続けようとしているからだ。それはより多くの人々の利益のためだからお前らはガマンしろ、と言っているのと同じだ(もっとも、それが本当に利益になるかどうかも怪しい)。
 
 その考え方を、たとえば日本国憲法は「公共の福祉に反しない限り・・・」のくだりで支持している。だからこの国では、大勢の利益のためなら少数が犠牲になることもある。けれど99匹を置いて1匹を探すキリスト教世界では、必ずしもそうではない。むしろ1匹を大事にするという非合理的な方法が採られている。
 
 だから私が思うに、問題が発覚した牧師は、「働き」が途中だろうが何だろうが即刻完全に手を引かせるべきだ。それが必ずしも辞任に繋がるものでなくても、とにかくちゃんと悔い改めさせ、しっかり補償ができたと判断されるまで、戻してはならない。
 
 これは考えてみれば当たり前のことだけれど、その当たり前が当たり前でない教会が多いように思う。だからクリスチャンの一人一人、信徒の一人一人がそういう意識を持って、教会を、あるいは牧師を冷静に見ることが肝要だと私は思う。

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