「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメント・その3

2014年11月8日土曜日

スピリチュアル・ハラスメント

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「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメントについて、3回目。

 彼らの長時間の祈りの内訳は、前回書いた通りである。教会によって多少の変形はあるだろうけれど、基本的に「異言」なる意味不明な単語の連発であり、それに「祈りのプロセス」という「意味づけ」をしているだけだ。

 この「意味付け」というのも、考えればおかしな話だ。
「異言」の意味は、神のみが知る。「知性では実を結ばない」とある通り、人間にはその意味を理解することができない。だから意味付けすることもできない。なのに「この異言はこのプロセスを意味する」などと、意味づけしてしまうのである。

「それは異言の解き明かしの賜物があるからだ」と彼らは反論するだろう。けれど解き明かし(翻訳)は、一つの単語に対して一つの訳語でなければならない。ダニエル書に登場する「神の指が書いた文字」も、誰にも読めない、わからない単語だったけれど、その意味は一つだった。

 なのに彼らの「異言」はだいたいいつも同じ単語で、せいぜい二つか三つのバリエーションがあるくらいなのに、その「意味」となると、無限に広がってしまう。たとえば「バラバラ」が「スウェーデンのための祈り」と解き明かされ、同じ「バラバラ」が「終末の為の備え」と解き明かされる。違うのは抑揚や激しさ、音量だけだ。同じ単語なのに、無限の意味がある。それは言語として明らかにおかしい。

 もちろん複数の意味を持つ単語はある。中国語だと、発音で意味を変える単語もある。しかしだからと言って、二つか三つの単語ですべての表現をカバーする、という言語などあり得ない
 だからハッキリ書くけれど、彼らの「異言」も「解き明かし」もホンモノではない。ニセモノだ。
 そんな気がする、そうであるはずだ、そうであってほしい、という気持ちの表れでしかない。

 また余談が長くなってしまった。ここから本題。

・「長時間の祈り」によって何が起こるか
 
 彼らは長時間、集中して祈ることで、主に親しく語られる、と言う。長時間祈って打ち破らなければ聞けない御心がある、と言う。
 それが単なる能力主義、律法主義であることは前回までにも書いた。
 今回は、彼らが何故長時間にこだわるか、考えてみたい。

 音楽療法の分野では、単音を延々と聞かせることで脳波を低周波に保ち、心身をリラックス状態(あるいは催眠状態)にする、というのが理論的に証明されている。これは座禅を組んだお坊さんが、お経を唱えることで瞑想状態に入るのに似ている。ヨガでマントラを唱えるのも同じだ。だから怪しいプロテスタントの怪しい「異言」も、同様の効果が得られると考えられる。

 だから自ら「異言」で祈り、周囲からもいろんな単調な「異言」が聞こえてくる状況で、それが長く続くと、夢を見ているような状態になり得る。すると何かが見えたり聞こえたりもするだろう。あるいは誰かが言った何かがキッカケとなって、関連したイメージが膨らむかもしれない。あるいは本当に夢を見ている、ということもあるだろう。

 そういう精神状態になることを無視して、長時間祈れば「神に語られる」と言うのは単なる神秘主義だ。
 
 またもう一つの影響として、集団ヒステリーが考えられる。
 これはまだ原因が解明されていないけれど、たとえばある集団内で誰かが泣き出すと、その感情が伝播して全員が泣き出す、という現象だ。
 怪しいプロテスタントでも、誰かが(祈られて)痙攣して倒れると、同じようにバッタバッタ倒れていく、という現象がある。泣くのもそうだし、笑うのもそうだ。あるいは「主が〇〇と語られた」と誰かが言うと、全員が「そうだ、〇〇だ」「私も今〇〇と語られた」なんて言いだす。

 長時間の祈りの中で、いわゆる夢見状態になって、集団ヒステリー状態になる。それは残念ながら科学的には解明されていないけれど、それを体験してきた私には、とても説得力がある。
 今そういうのに夢中になっている人も、冷静になって自己の内面を考えてみれば、その可能性を否定できないはずだ。

 もちろん、神様は語られるし、答えて下さる。私はすべてを否定したいのではない。
 けれど私がこうやって問題提起ばかりしているのは、そういうことをするクリスチャンが、不道徳な問題ばかり起こすのを見てきたからだ。

 言うことがどんなに素晴らしくても、本人の人格が伴っていない。それはクリスチャンとしてホンモノでない証拠だ。つまりニセモノだ。

 私たちが長時間祈らなくても、神様は語って下さる。既に語っておられる。私たちが努力して神様に近づかなくても、神様の方から近づいて下さる。私たちが救いようのない存在でも、神様は救って下さる。それが福音のはずだ。
 教会に行くと、「良きサマリヤ人」のたとえを引用されて、「私たちは良きサマリヤ人であるべきだ」と語られる。けれど、私たちはもともと、そして今も、強盗に襲われた旅人の方なのだ。もちろん親切な隣人でありたい。けれど、そうできない自分自身を認めることから始めないと、結局のところ、私たちも偽善者でしかない。そうではないだろうか。

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