ジェンダーの話題に教会はついて行けるのか

2014年11月3日月曜日

キリスト教信仰 時事問題

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 このところ、ジェンダーに関する記事を見る機会が多くなっている。

 http://blogos.com/article/97847/

 ジェンダーの話題に関心が高まっているのか、私がたまたま見るだけなのか、よくわからない。けれどリンク記事を読むと、LGBTの方々の苦悩は、実体験としてわからなくても、決して小さくないと想像できる。だから世間の関心が高まるのは、良いことなのではないかと思う。もちろん、その関心が今後どうなっていくかはわからないけれど。

「男らしくしろ」「女らしくしろ」というのは、私が子どもの頃は平気で言われる言葉だった。そして社会全体が、それを良しとしていたように思う。
 男性は「男らしく」あることが当然で、女性は「女らしく」あることが当然で、そこから逸脱する者は容赦なく責められる。「それでも男(女)か!」みたいに言われて、自分の自然なありようを否定される。

 社会がそういう風だと、言われた方は「自分が悪い」「自分がおかしい」「自分が間違っている」と思ってしまう。大勢からNOを突き付けられる状況で、YESを貫くのは大変だ。相当タフでないとできない。

 かくいう私は小学校の頃、いわゆる「男子的な遊び」に興味がなく、野球のルールなんか全然知らなかったり、座って絵を描くのが好きだったりで、「それでも男か」と男子からも女子からもバカにされることが多かった。
 また(ジェンダーとは関係ないけれど)左利きなのを「おかしい」「右で書けなきゃ恥ずかしい」「ギッチョだ」と責められることも多かった。
 リンク記事の方のことを考えたら「その程度か」という話だろうけれど、自分のありようを真向から否定されて、私は私でけっこう辛かった。そして私も、「自分がおかしいんだ」と考えるようになった。

 そういう背景もあってのことだろうけれど、私はジェンダー・ハラスメントなどあってはならないと思う。というか、あらゆる種類のハラスメントがあってはならないと思う。
 そういう「いじめ」をする輩は、他者を理解しようとする力がおそろしく欠落している。自分も一度、そういう目に遭ってみたらいいだろう。

 ジェンダー問題のごく一部分だけれど、「同性愛」について、このブログでも何度か書いてきた。同性愛に関する私の意見を簡単に書くとこうなる。同性愛嗜好は、異性愛嗜好と同じく変更不能な性向であって、責めるとか問題視するとかいう種類の話ではない。同性愛を否定するなら、同様に異性愛をも否定しなければならない。異性愛そのものが罪でないように、同性愛そのものも罪でない。

 ひるがえってキリスト教界を見てみると、(教派によるだろうけれど)「同性愛=罪」みたいな単純すぎる図式がいまだに蔓延しているように思う。「同性愛」と聞くだけで、彼らは「それは罪だよ」「過去の傷によるものだよ」「それは癒されなければならないな」などと平気で言う。人の気持ちをまったく考えていない。あるいは、考えが途中で止まってしまっている。
 もちろん、全ての教会がそうなのではないだろうけれど。

 ジェンダー問題に関心が高まり、人権擁護の声が高まる昨今、キリスト教会がそんな旧態依然のままでは、「この世に良い影響を与える」などできる訳がない。「聖書の真理に古いも新しいもない」とか反論されそうだけれど、その「聖書の真理」とやらが手前勝手な思い込みでないと、どうして証明できるだろうか。
 あるがままのその人を愛せないくせに、よく「キリストの愛」とか言えるものだ。盲目にもほどがある。

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