クリスチャンの禁止事項(?)について・その2

2014年11月29日土曜日

体験談から

t f B! P L
 前回に続いて、いただいた体験談から。
 前回のまとめとして、某聖霊派教会が信徒に禁止する項目は次の通り。

・テレビ、ラジオ、ネット等のメディア(新聞、雑誌等も含む)

・一般の音楽

・マンガ、アニメ、キャラクターもの

・日本伝統のお祭り、しきたり、風習や慣習(七夕など)

・酒、タバコ等の嗜好品

・占い、おまじない、願掛け、げんかつぎ、お守り

・おとぎ話、昔話、民話、童話

・サンタクロース、クリスマスツリー

・その他もろもろ(マリアの神格化。他の宗教の匂いのするもの。たとえばマンダラ、ヨガ、中国結びの飾り等。三浦綾子。腕組みしてメッセージを聞くこと。etc...)

 まさに「あれもダメ、これもダメ」状態である。しかもそれらはほとんどが「モノ」の禁止であって、一番問題である「それを求める人間の心」が扱われていない。だからこれらの禁止は本質を欠いている。
 これはたとえば、ナイフを欲しがる子に対して「危ないから持つな」と禁止するだけで、ナイフの本質やその実際的な必要性、そして何よりそれを欲しがる子の心理を無視するようなものだ。ナイフを禁じられたその子は、単純にナイフに替わる方法を探すだろう。問題は何も解決していない。うわべを取り繕うだけで。

 ではそれに対して、彼らは何だったら許可するのだろうか。順番に見てみよう。

■某聖霊派教会で推奨されるもの(これさえあれば信仰的、敬虔、霊的、現代のパウロとか言われるかも?)

・聖書通読
 聖書通読そのものは、クリスチャンなら一度はすべきだと私は思う。聖書全体が何を言っているのか、大雑把にでも把握しておかないと、自分が信じる神様が何を言っているのかちゃんと知らない、なんてことになるからだ。
 けれど、この教会の人たちが主張する「 聖書だけ読めば何もいらない」は行き過ぎであろう。

 もちろん中には不要な書物もある。けれど、多くの一般の図書は無害というより、むしろ多くの知識を提供してくれる。また書物の集積は先人たちの知識の集積でもあり、技術的進歩にも大いに貢献している。彼らが使うスマホだってそういう進歩の産物である。
 他にも聖書の時代についての解説本とか、いろいろな聖書解釈の本とか、そういうのもクリスチャンには有用だろう。だいいちこの教会の人たちはハイディ・ベイカーの本を大絶賛しているではないか。「聖書だけ読めば何もいらない」にハッキリ矛盾している。

・ワーシップソングを聴く
 これはべつに悪いことではない。けれど問題は、「ワーシップソングだけで十分」という、やはり行き過ぎな主張にある。これは言外に、ワーシップ以外の音楽は有害だ、という主張を含んでいる。じゃあ街を歩いていて、一般のヒットソングが流れてきたらどうするのだろうか。耳を塞ぐのだろうか。

・「異言」で祈る
「異言」の祈りを長くする程いい、と彼らは言う。
 けれどそもそも、彼らが言う「異言」がおかしい。気になる方は「異言」ラベルの記事を見ていただきたい。彼らは聖書を完全無視した「異言論」を盲目的に信仰し、そのくせ「こんな異言で祈れる自分って霊的♪」とか思っている。そしてそれを非難する私のような人間は、不信仰か罪か悪魔の手先かということになる。
 また、祈りは長ければ長い程いいというのは努力の話であり、能力主義、律法主義、ついでにご利益主義でもある。頑張らなければ神に近づけない、努力しなければ神は答えてくれない、という聖書に反する教理である。

 ・禁欲、献金
 禁欲と献金が一緒に語られるのが興味深い。つまり欲しいものは我慢して、教会に捧げなさい、ということだ。
 これも、多く捧げた者は多く祝福される、という出来高制みたいな信仰になってしまっている。
 また、「捧げたものが倍以上になって返ってくる」ことを期待して捧げるとしたら、それはもう投資である。献金ではない。

・断食する
 断食が長ければ長い程、神様に近づけるという。でもこれもやっぱり能力主義だ。どれだけ我慢できるか、どれだけ通常の在り方を超越できるか、という点が重要になってしまっている。
 なんでも、同教会の牧師が40日間断食したと聞いたことがある(その真偽は不明だ)けれど、そこまでしないと語られないとしたら、神様は究極のサディストだ。人間を苦しめて喜んでいるとしか思えない。

・徹夜で祈る
 これも長く続けば続く程いいという話で、これまで同様「我慢大会」である。
 また、徹夜祈祷は金曜日の夜が特に大切だそうだ。キリストがゲツセマネで祈ったのが金曜の夜だったからか。でもその発想は、映画「13日の金曜日」と同じだ。
「ある日を特別と思うのも思わないのも自由」みたいなことを聖書は言っているから、金曜が特別大切と思うのは勝手だ。けれど、金曜だから特別に語られるとは聖書に書いていない。

・聖会の定期的に参加する
 これは仕事より重要だそうだ。聖会の参加は自由のはずだが、ここにはそういう自由はない。
 でも聖会って、世界中で相当数行われているはずだけれど、その全部に参加しろってこと? それは物理的に不可能でしょう。
 では参加すべき聖会・参加しなくていい聖会は、誰がどうやって決めるのだろうか。その根拠はどこにあるのだろうか。聖霊が語られるから? では、聖霊が参加しなくていいと語った、と言ってもいいのだろうか。

・日曜日は教会へ。その他の日も教会へ!
 じゃあいつ仕事とか家事とかしたらいいですか?

→結論
 以上の推奨項目をまとめるとこうなる。
 理想のクリスチャンは毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。「汚れた」一般社会とは、一切接点を持たない。

 そういう素敵なクリスチャン生活を送りたい方は、是非この教会へ!(もしいればの話だけれど)

 ちなみにこの教会に行くと、病気でも日曜礼拝に参加するように言われる。「礼拝に来たら癒されるから、来なさい」
 それで無理して行っても、癒されなかった。すると何と言われるか、わかるだろうか。
「あなたの信仰が足りないのです」
 合掌。

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