2014年11月21日金曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・超教派集会篇・その2

 前回に続き、ペンテコステ系の超教派集会について。
 前回の項目は、

・集まるのは当然ガチガチのペンテコステ系クリスチャン
・波乱万丈な賛美
・感動的な献金の勧め

 であった。詳しくは前回の記事をお読みいただきたい。
 さて今回は、上記に続き、「学芸会みたいな出し物」。
 
・学芸会みたいな出し物
 
 これは正式には「特別賛美」とか呼ばれるものである。「出し物」と書いた時点で怒られそうな気もするけれど、他に適当な表現がない。
 
 通常の賛美が会衆が自ら歌うものであるのに対して、これは会衆が「見て、聴いて礼拝するもの」という位置づけである。
 舞台に特別賛美をする人(たち)が上がり、それぞれパフォーマンスを披露する。と言っても賛美を歌うだけでなく、ダンスとか、パントマイムとか、映像とか、楽器の演奏とか、その場で絵を描くとか、いろいろある。そういうのを見て「ハレルヤ!」「アーメン!」「主は素晴らしい・・・(溜息)」とか称賛するのが、正しい会衆の在り方となっている。
 
 べつにそういう方法の礼拝がないとは言わない。けれどこの手の集会においては、それはほとんど「学芸会」の時間になっている。
 
 実体験として印象的だったのは、もうずいぶん前の話だけど、中高生くらいの子たちだけのバンドである。大舞台での演奏はそれが初めてということで、たいへん気合が入っていた。格好つけた(?)演出で登場して、壇上で(よくわからないけれど)ノートパソコンをいじったりして、ヒルソングの元気な歌をやった。スクリーンには歌詞とともに、その子たちの練習風景が映し出された。「僕たち、こんなに頑張ってきたんです」というアピールのようだった。
 たまたま私の近くに、その教会の関係者がいた。「みんな頑張って~」「すごいすごい」「いいよいいよ」などと大声で声援を送っていた。当時は違和感を覚えただけだったけれど、今思えば、あれは「音楽発表会」だった気がする

 初めてだったからとか、まだ若いからとか、事情は理解できる。けれど、「ただ主を礼拝したいだけ」なら、なぜ内輪の練習風景を大々的に映す必要があるのだろうか。そのへんの辻褄が合ってない気がした。
 
 ところでそういう集会に長く関わっている教会は、毎年、実行委員会から「お誘い」を受けている。
「今年も特別賛美の時間枠、お願いします」
「今回は若者向けで」
「そう言えばこの前のワーシップダンス、良かったですよ」
 それで教会は、毎年恒例みたいに、本番に向けて練習を始めることになる。
 
「特別賛美枠」の常連教会はだいたい決まっていて、それだけに教会どうし、互いに意識している。
「あの教会、去年はフラッグダンス取り入れてたよね。ウチも何か新しいことやろうか」「ダンスじゃあの教会にかなわないから、ウチは映像でいこう」みたいな感じだ。もはやライバルとの競争、よりハイレベルなパフォーマンスの披露、会衆を驚かせて感動させること、に終始している。そしてそういう全てを、「主の栄光のために」の一言で覆い隠している。
 
 ちなみに上述の中高生バンドはたいへん痛々しいのだけれど、彼らだって被害者だ。周りの大人、特に指導者が何もフォローしないから、そういうことになってしまう。たいへん気の毒だ。

疑問)「見て、聴いて礼拝する」とは?
 
 大人の側の問題と言えば、そういう「特別賛美」の見方にもある。

 私が初めて「特別賛美」を見た時、正直言って、「見て、聴いて礼拝する」という感覚がわからなかった(今もわかっていないと思う)。
 周りの人たち、特に牧師やリーダーたちが、壇上で捧げられる賛美やダンスにウットリした様子で、手を挙げたり、「ハレルヤ」と呟いたり、泣いたりするのである。そんな中、初めての私は「そういうものか」と思うしかなかった。そしてそういう観賞行動はどうしても真似ることができなかったけれど、「こういうのは礼拝の心で見るものなんだ」と思って、そう心掛けるようにした。けれどそれは結局のところ、礼拝しているフリでしかない。

 そもそも、「見て、聴いて礼拝する」というのは、礼拝として成立するのだろうか。

 パフォーマンスのクオリティにもよるけれど、芸術観賞のような感覚で見ることなら、できると思う。たとえば昨年、「シルク・ド・ソレイユ」の日本公演があったけれど、ああいう圧倒的なパフォーマンスを鑑賞してただただ感動する、声も出ない、という感覚なら理解できる。けれどそういう感動と礼拝行為とは、直接的に繋がるのだろうか。
 あるいはもっとキリスト教に関連付けて、たとえばパイプオルガンとか、聖歌隊とか、ステンドグラスとか、由緒ある教会堂とかを観賞して感動するかもしれない。その感動自体は、礼拝行為と言えるのだろうか。

 もしそうだとしたら、礼拝には感動が必要だ、という話になってしまう。感動すれば礼拝であり、感動できなければ礼拝でない、という訳だ。けれど、感動と礼拝は関係ない。気分がいいから礼拝するのではない。私たちは感動しようがしまいが神様を礼拝する。そういう気分でなくても、落ち込んでいても、礼拝する。
 
 それに、仮に「特別賛美」を鑑賞して感動するのが礼拝行為だとしても、私のように「これで礼拝しないと」と、全然感動していないのに感動しているフリをするとしたら、それは礼拝とは言わない。

5 件のコメント:

  1. イースタン・ブルー2014年11月21日 23:49

    観賞ということではないと思っています。礼拝で司会者や当番?の信徒が祈る時に心を合わせるのに近い、公同の教会、公同の礼拝の様式の一つということと思います。旧約聖書で民を代表して祭司が捧げ物をするということが有りますが、それが音楽等の賜物による捧げ物となったということになるのではないかと思うのです。

    しかし、同時にそういう理解をきちんと分かち合っている教会は大変少ないと思います。ご指摘のような問題のある状況に陥っている教会が大部分であるかもしれないと恐れています。

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  2. そして、このような大集会が終わった後、会場から帰途につく信者たちが口々に語る言葉「良かったわね、今日は恵まれたわね」「良かった、よかった、来てよかった」「すごかったね」
    そして、家に帰り、しばらく興奮冷めやらぬもののしばらくたつとすっかり元の状態に戻り何事もなかったかのように。。。

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  3. そうすると、説教自体、礼拝と言えなくなるような気がします。
    説教は聞いてるだけなので。

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    1. イースタン・ブルー2014年11月22日 20:18

      説教が礼拝と言えるかどうかは、説教者の態度にかかっています。自分の言いたいことを言ってるだけの説教は礼拝ではなくスピーチです。一方、聖書の言葉を神の言葉として尊ぶ姿勢で、その言葉何を言っているのかを解説し、それをどう適用して生きるのかを説き明かす説教は、礼拝になっています。聞く会衆は、同様にみ言葉を尊んで、そこに神の心を求め、同意し、その言葉を与えられた神を褒め称えて聞く時にのみ礼拝たり得るのです。ただ聞いているだけなら礼拝者ではなくてリスナーです。

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  4. 匿名様
    イースタン・ブルー様
    コメントありがとうございました。

    確かに、メッセージは「聴く礼拝」ですね。

    私が言いたかったのは超教派集会における「出し物」のことなのですが。

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