聖書の成功哲学は、信仰生活とは違う、という話

2014年11月17日月曜日

繁栄の神学の問題

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 聖書を「成功哲学の書物」とする読み方があるようだ。

『聖書で学ぶ成功哲学』という書籍がある。ビジネスに聖書的原理を利用すれば成功(繁栄)できる、というようなことが書いてある。クリスチャンの信仰書でなく、あくまで一般のビジネスマン向けに書かれている。いわゆる啓発本だ。

 聖書の原則、たとえば「与える」とか「仕える」とか、「まだ見ぬうちに信じる」とかいうのは、一見、ビジネスで儲けようという姿勢とは関係ないように思える。けれど、他のビジネス啓発本を見ても、「人を喜ばせる」とか「相手の必要を満たす」とか、けっこう聖書的なことが書かれている。クリスチャンが読んだら、容易に聖書を連想するだろう。

 たぶん、ビジネスで一定の結果を出している人は、経験的に聖書的原理に気づいているのではないかと思う。もちろんそれが聖書に書かれているとは知らずに。そしてそれは、聖書が成功哲学の書物でもあることを証明していると言える。

 聖書の原則に従うことで、一般の人でも良いものを得られるというのは、クリスチャンにとって誇らしいことだろう。聖書が真理であり、神様が本物であると証明されるからだ。だから聖書の成功哲学を利用してビジネスを成功させよう、という試み自体は、全然悪くない。

 けれど昨今、クリスチャンがクリスチャン向けに「成功哲学セミナー」みたいなのを開くことがある。内容は同じで、聖書の原則に従って「人生の成功」を勝ち取ろう、繁栄しよう、みたいな感じだ。それも必ずしもビジネスの話ではない。

 信者だろうが未信者だろうが、ビジネスに聖書的原則を応用するのは構わない。むしろビジネスは成功させてナンボなのだから、使えるものは何でも使って、努力して儲けるべきだろう。その姿勢は、今日の資本主義社会においては何ら責められるものではない。

 けれど上記のセミナーの問題は、クリスチャンは人生に成功してこそ聖書的だ、という点にある。成功して経済的繁栄をつかみ、名声をつかみ、高い地位をつかむことが聖書的であり、信仰であって、そうできないのは不信仰だ、という話になってしまう。要は「繁栄の神学」である。

 私たちはもちろん豊かな暮らしがしたいし、良いものを受けたい。誰もがそう願うだろう。けれどキリスト教信仰は、必ずしも繁栄を約束していない。旧約聖書は十戒を守る者に「恵みを千代にまで施す」と書いているけれど、新約聖書は私たちが「キリストの苦しみにあずかる」とも書いている。

 だから「繁栄の神学」を信奉することは、聖書の片面しか読んでいないことになる。それを人に教えるのは、わざと知識を欠けさせることになる。黙示録22章19節は、「(聖書の言葉を)少しでも取り除く者は~受ける分を取り除かれる」と警告している。彼らはその警告さえ耳に入っていない。

結論)
 聖書の成功哲学に従って生きること  聖書に従って生きること

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