「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ

2014年10月3日金曜日

「霊性」問題

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 いわゆる聖霊派クリスチャンは、「霊的」という言葉にこだわる。
霊的なことがわかる」というのが彼らにとって重要な価値基準であり、「わかる・わからない」はそのまま「信仰のレベル」とか、「信仰的立場の上下」とかにつながる。だから彼らは口癖のようにこんなことを言う。
「この現象は霊的には〇〇という意味がある」
「霊的なことがわからない人たちは××だ」
「あの教会の人たちは霊的なことがわからないから、言っても無駄だ」

 もっとも、信仰のレベルとか、上下とかいう区別を付ける時点で、その信仰は間違っている。少なくとも、キリスト教信仰ではない。けれど、彼らは気づかない。逆に間違いだと言われれば言われるほど、「霊的なことが万人にわかる訳ではないから」みたいな弁明をする。

 私が思うに、この「霊的なことがわかる・わからない」を主張する人たちは、まず「霊的なことがわかる」のがどういう状態なのか、明確に説明すべきだ。何をもって「わかる」とするのか、「わかる」とは何が「わかる」ことなのか、その基準を聖書からはっきり示してもわらなければ、私は納得できない。
 というのは、彼らの言う「霊的なことがわかる」の実例を見ても、とても「霊的なこと」とは思えないからだ。
 

 たとえばこんな実例がある。
「たまたま開いた聖書の箇所から、神様がタイムリーに語られた」
「宿泊先の部屋番号を合計すると〇〇になり、これは重要なことが起こる年と月を示している」
「空の雲の形が、ちょうど人を乗せたような形になっている。あれは再臨を示す雲だ」

 他にも沢山あるけれど、どれも似たようなものだ。この中で、「偶然」とか「思い込み」とか「こじつけ」とかいう要素を完全に除外できる例が、果たしてあるだろうか
 少なくとも私には、バイアスがかかった見方をしているだけに思える。つまり「こうであってほしい」という彼ら自身の願望が、単に反映されているだけだ。

 それに、仮にそれらが神からの「霊的」なメッセージだとしたら、逆に問題になる。何故なら「霊的」というのが、そんな幼稚で刹那的で、無意味で、何の結実ももたらさない不要物ということになってしまうからだ。
 だいいち、人を乗せた形の雲が見えたから、いったい何になるのか。それで人が救われるのか。雲は、見る角度によって見え方が変わる。たまたま自分の立ち位置から見た雲がそうだったというだけで、他の角度から見たらきっとそうはならない。それは「自分の立ち位置がすべて」という傲慢と自己中心を含んでいる。そんなのが「霊的」なのか。だとしたらかなり見え透いた、稚拙な霊だ。結論から言うと、人間の思い込みでしかない。

 そういうのを表わす日本のことわざがあるので、紹介してみる。

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

 意味はご存知の通り、怖い怖いと思っていると、何でもないものが恐ろしいものに見える、というもの。それと同じで、「イエス様(♡)の再臨が近い♪」とか御花畑気味に考えているから、「あ、あれは再臨雲だ!」とかなるのだ。

 繰り返して書くけれど、そんなのが「霊的」なら、霊など大したことない。それより人間の想像力の方がはるかに勝っている。人間の想定内にある「霊的なこと」は、霊的ではない。単に人間が考え出しただけのことだ

 こう書きつつも、私は霊的なことを否定したいのではない。霊性もクリスチャンにとって大切な資質の一つだと思っている。けれど上記のような聖霊派クリスチャンらの主張が受け入れられてしまうと、クリスチャンの霊性が地に落ちてしまう。クリスチャンは怪しいとか、インチキだとか、頭がおかしいとか思われてしまう。そういうのを避けたいので、こういう記事を私は書き続けている。

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