「恐れるな」と言われる恐怖

2014年10月24日金曜日

キリスト教信仰

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恐れるな」と、聖書は相当な回数言っている。
 数えたことはないけれど、ざっと見積もって数百という単位である。私の好きなクリスチャン映画 "Facing the giants" でも、主人公の恩師がそれに言及している。彼によると、「恐れるな」の聖書登場回数は365回とのこと(自分で確かめた訳ではない)。

 ちょうど1年分の回数だから、「神は毎日『恐れるな』と言っているんだ」みたいな解釈もあって、よく感動系のメッセージに使われたりする。
 その解釈はどうでもいいけれど、おそらく類似の表現も含めると、「耳タコ」なくらい言っている」のは間違いない。
 
恐れるな」は良いメッセージであろう。人はどうしても、恐れたり不安になったりするからだ。
「怖がらなくていいんだよ」「心配しなくていいんだよ」と言ってもらえると、たとえ根拠がなくても、少なからず慰められる。自分にそういうことを言ってくれる人がいる、というだけでも、心持ちは全然変わる。そうやって誰かに支えられることで何かができた、という経験は、誰にでもあるのではないだろうか。
 
 けれどこの良いメッセージが、扱いようによっては凶器ともなる。

「神が『恐れるな』と言っているんだから恐れてはいけない勇敢な神の兵士であれ!」
 そう牧師に言われて、戦いたくもないのに戦わさせられたり、無理難題に挑戦させられたりすることがある。

 たとえば、「預言する時は躊躇するな。恐れて語らないのは敵の策略だ。恐れを打ち破って、大胆に語れ!」とか言われる。
 すると、自分が語ろうとすることが本当に神からのものなのか、という吟味が許されなくなる。べつに恐れている訳でなく、確証がほしいだけなのに、そういうプロセスを省かせられてしまう(そういう牧師は吟味や検討より、スピードや展開を重視している)。結果、何の確認作業もないまま「主が語られる」を言う羽目になる。そしてそれは、大きな間違いのもとだ。
(この例は、『預言が今日も存在するかどうか』という根本的な問題も含んでいるだろう。)

 また実務的な面でも、たとえば週報の印刷を業者に依頼する信徒に向かって、
「納期をこれこれに縮めさせろ」
「料金はこれこれに抑えさせろ」
「これこれの仕方で納品させろ」
とか、普通ではありえない無理難題をふっかけさせる。その信徒の方は、たまったものではない。一般の業者に対して、非常識な交渉をしなければならないからだ。それを「できない」とか言えば、「恐れるな。あなたには神がついているだろう」とか言われてしまう。
 つまり、「神の子ならそれくらいできて当然だ。できないのは不信仰の証拠だ」という論理である。

 この場合、平安を与えるはずの「恐れるな」が、高いハードルを越えさせるための方便となる。しかし言われた方は、「これも信仰」「これも主のため」としか思えない。だから彼らにとって、「恐れるな」は恐怖であり、凶器である。そして彼らがもっとも恐れるのは、神様でなく牧師だ。

 自分が何を恐れているか、は信仰の一つのバロメータになると思う。その対象が神様以外であるなら、何かが間違っている。そして間違っていることに気づいたなら、最善の策は、できるだけ早くそれを訂正することであろう。その時こそ、本当に「恐れるな」が必要になると思う。

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