2014年10月21日火曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・ダビデの幕屋篇

 
「キマジメくんのクリスチャン生活」第17話の解説。ダビデの幕屋篇。
 本文はこちらから。

→第17話

 これは、イスラエル旅行帰りの溝田牧師が「ダビデの幕屋回復運動」にかぶれて、自教会に導入し、キマジメくんもそれに巻き込まれていく、というエピソードである。

 ダビデの幕屋は、終末信仰との関連でよく引き合いに出される。「終末が間近に迫っている、だから神がダビデの幕屋を回復させようとしておられる」というのが、その根拠だからだ。だからほとんど、

終末の準備=ダビデの幕屋

という構図になっている。
 けれど私が確認できた限りでも、これは20~30年くらい前から言われていることで、全然新しいことではない。当時の人たちが「終末が間近だ」と言ってから、既に四半世紀が過ぎている。どこが間近なんだよ、という話である。

 くわえて、彼らが愛してやまない「ダビデの幕屋」の礼拝は、大音量で賛美したり、旗を振ったり、タンバリンを打ち鳴らしたり、踊ったり、泣いたり、気になった聖書箇所を大声で「宣言」したりすることだ。感情的高揚(ほとんど集団ヒステリーと言っていい)を「霊的高揚」とか「霊的覚醒」とか言い、単なる思い込みや願望を「神に強く語られた」と言う。

 ダビデの幕屋はそんなものではなかったし、だいいち旧約のある時代の礼拝形式を模倣して「回復だ」と言うのは、新約時代における「旧約帰り」でしかない。律法から解放されたのに、またそこに戻ることになる。人間の成長で言えば、退行現象みたいなものだ。

 まだある。彼らは「エルサレムでこそダビデの幕屋を回復するべきだ」と言って、イスラエルで「祈りの家」を建てているけれど、聖書を無視している。あるいは読んでいないか、読解力がないかだ。何故ならキリストが、「礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない、そういう時がきます」(ヨハネの福音書4章21節)と言っていて、礼拝は場所や形式でなく心だとハッキリ言っているからだ。

 と、いうようなことは今までも書いてきた。
 ここで初めて書きたいのは、「50時間の祈り」についてだ。

「50時間の祈り」とは、ダビデの幕屋をする人たちが、時々イベント的に開く催し物だ。聖書用語などではない。
 彼らはもともと "24/7" という表現を使っていて、「24時間7日間、休まず主に仕えます(バカ騒ぎの礼拝をします)」と言っているから、50時間というのはハンパな気がする。けれど彼らは、それは「ヨベルの年(50年に1度の解放の年)」と同じ「50」だから、大いに意味がある、と言う(なんで「年」が「時間」になるかは知らない。だったら「日」でも「分」でも「秒」でもいいような気がするけれど)。

 このイベントでは、文字通り50時間の礼拝が捧げられる。けれど全員で50時間礼拝しっぱなしなのではもちろんない。礼拝するチームが何組もあって、それぞれが2時間くらいずつ受け持って、いわゆる「礼拝リレー」をするのだ。それぞれのチームは得意分野(?)を生かして、2時間賛美したり、2時間とりなしたりする。それで最後のセッションだけは全員集合して、勝利のトキの声ををあげるのだ。何に勝ったのかはわからないけれど(おそらく彼ら自身にもわかっていないだろう)。

 そういうのがイスラエルや台湾やアメリカ、また日本でも行われている。

 なんでそんなことするんだ、と思われるかもしれない。その感覚は正しい。けれど彼らなりの理由はある。彼らの言い方で言えば、「50時間、天国の臨在に浸れる」からだ。

 実は私も「50時間の祈り」に参加したことがあるけれど、確かに特別な感覚がする。夜でも深夜でも早朝でも、会場に行けばどこかのチームが礼拝していて、自分の担当時間でない限り、そこで思い思いに過ごすことができる。賛美してもいいし、祈ってもいいし、聖書を読んでもいいし、ボケッとしてもいい。寝てもいい(一晩会場で寝て過ごす人もいた)。
 そこはまったく世俗を離れた、不思議な空間となる。私自身は50時間の間、ほとんど空腹を感じなかった。なんとなくフワフワしていて、心地いい感覚が持続していた。「天国の臨在」と言われれば、なるほど、そう信じることもできる。

 しかし今思うと、それはトランス状態の一種だったのではないかと思う。

 仮にそれが天国的な何かで、神様が与えてくれたものだとすると、矛盾が生じる。それはクリスチャンを世俗から完全に切り離すものだからだ。一般社会に生きて信頼を得るべきクリスチャンが、少なくとも50時間の間(実際にはそれ以上)、社会から完全に隔離されてしまう。さらに「天国の臨在」に酔い、社会にうまく戻れなくなってしまうかもしれない。
 そういう状況を一般人が知ったらどう思うだろうか。羨ましがるだろうか。奇異な視線を向けるだろうか。大部分の人は後者ではないかと私は思う。

 だからクリスチャンがますます軽んじられ、煙たがられ、厄介者扱いされるのではないだろうか。彼らは「これこそ真の信仰」とか言うだろうけれど、そういう頑なさが一般社会との隔たりを大きくし、かつ聖書そのものからも逸脱していくことになるのである。「信仰を守ること」と、「頑固であること」は、まったく違う。そういうことを冷静に考えてみることが、クリスチャンには絶対必要だと私は思う。

2 件のコメント:

  1. さて、ヨハネの福音書4章21節を引用しているのですが、

    新改訳聖書はとてもweb利用がナーバスな翻訳で、

    このリンク先のとおりだと、250節までしか引用ができないということになっています。



    http://www.seisho.or.jp/use-quote/use_quote.html

    250節は多いように見えても、コメントのなかでの引用もカウントされると考えると、油断はできません。
    ましてや、TPP交渉の結果、知的財産権の保護がアメリカ並みになり、著作権侵害の告発が非親告罪化された場合、実績の欲しい検察やキリスト教を敵視する存在がこのブログに目をつけるおそれも、なきにしもあらずです。

    これは、新共同訳でも事情は同じです。



    http://www.bible.or.jp/read/read10.html

    聖書の引用は、著作権の切れた翻訳(口語訳、文語訳)か、個人訳(岩波版)を引用の決まりに従って行うか、聖書箇所(書名章節番号)の記載にとどめるかにするのが、お互いに問題のないやり方ではないかと思います。

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  2. 匿名様
    コメントありがとうございます。
    新改訳の著作権のことは考えたことがありませんでした。
    ご指摘ありがとうございます。

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