クリスチャンは「人生の成功者」でなければならないのか

2014年10月19日日曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 ある牧師が、キリスト教系サイトでこんな記事を書いている。
 
人生の勝利者(成功者)となるには
必要とされる人になるには
 
 そしてその為の方法論みたいなものを、つらつらと書いている。前向きであれ、肯定的であれ、創造的であれ、リーダーであれ・・・とかなんとか。それ自体は全然問題ない。けれど読んでいて、あまりにライフハック的で、ビジネスマン向けなのかと思った。けれどそこは、確かにキリスト教系サイトである。普通のビジネスマンなら見ない。ということは、クリスチャン向けの記事なのだと思う。
 
 だとすると違和感がある。何故なら聖書が言う「勝利」は、一般的な「成功した人生」とは違うからだ。またキリストが地上に来られたのは、どちらかと言うと「敗北した人」、「人から必要とされない人」の為だったからだ。けれどこの記事を読むと、私たちは(一般的に言う)成功者にならなければならない、必要とされる人にならなければならない、というメッセージを感じる。
 
 確かに、敗北より勝利が、失敗より成功が、拒絶より承認が、劣等より優等が、より望ましいだろう。そうできるなら、誰だってそうする。私だってそうする。
 
 けれど私たちが生きる資本主義社会は、根本的に自由競争で成り立っている。つまり勝利や成功や承認を得るには、(基本的に)他者を蹴落とさないといけない。「私はそんなことしない」と言う人がいるかもしれないけれど、「したい・したくない」の問題ではない。そういう社会構造なのだ。
 
 たとえば学校で成績上位に入ることは、他者を追い抜き、自分以下大勢の順位を1つずつ下げることだ。企業が業績を伸ばすことは、同業他社の業績を減らすことだ。ただ競争者が大勢いたり、大勢が被雇用者だったりするから、そういうのをリアルに感じないだけだ。感じないだけで、誰もがそういう原理の下で生きている。
 ちなみに被雇用者だって、多くの場合、誰かを蹴落として就職したはずだ。医療福祉業界だって新しく建つ施設もあれば閉じる施設もある訳で、まちがいなく営利と競争原理の中にある。
 
 だから私たち全員が勝利し、成功し、承認され、豊かになる、ということはあり得ない。努力したからなれるという保障もない。誰かが勝つ限り、誰かが負けるのだ。
 そういう状況下で、「クリスチャンは勝利者であれ・必要とされる人であれ」と言うのは、全然聖書を実践することにならない。むしろ逆だ。愛することより奪うこと、許すことより非難して自分のチャンスとすること、他者を認めるより自分が認められること、を奨励しているからだ。
 つまり、聖書は「受けるより与えること」を推奨しているけれど、この牧師は「与えるより受けること」を推奨してしまっている。
 
 多くの人は、いわゆる「人生の成功者」になろうとしてもなれない。そこそこ普通の暮らしができれば安泰で、それ以上の挑戦をしようとも思わない。そしてそれは決して悪いことではない。
 また多くの人が、社会ではさほど必要とされていない。労働力としては必要とされても、その個人としては必要とされていない。交換可能な歯車みたいなものだ。
 
 でも、それでいいのだと私は思う。ハウツーを駆使して勝利者をめざし、必要とされる人材をめざしてストレスフルな競争生活を送るより、弱い自分・できない自分を受け入れて、今あるもので満足し、同じように他者の価値を認め受け入れて生きる方が、よっぽど自由で平和だと思う。聖書にもそれほど反しない。
 
 もちろん、勝利者をめざして生きるのも個人の自由だ。そうしたい人はそうすればいい。けれど、それが聖書的だとか、クリスチャンなら当然だとか、そういう一方的な押し付けは間違っている。とだけは言っておこう。

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