人は、神の愛に触れられて「変われる」のか・その2

2014年10月18日土曜日

キリスト教信仰

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神の愛に触れられれば、人は変えられ、真に人を愛せるようになる

 というキリスト教プロテスタントにありがちなメッセージの注意点について、2回目。

 前回は、クリスチャンが聖書的に「変えられる」としても、一部の人が言うような「一瞬」とか、「ごく短期間」とか、そんな即席に変わるものではない、と書いた。価値観の変容には長い時間がかかるし、そもそも時間がかかったから変わるというものでもない。

 この点で補足だけれど、いわゆる「新生体験」という主張がある。
 
「新生」というのは、ヨハネの福音書の「水と御霊によって生まれなければ・・・」を根拠とする「体験」のことだ。この体験の是非について書くと別の記事になってしまうので、ここでは書かない。けれどキリストが言っているい以上、「水と御霊によって生まれる」何らかのプロセスがある、と考えられる。

 その「新生」が、「聖霊によって一瞬にして起こる変化」なのではないか、という主張があるだろう。けれど前回書いた通り、変化には価値観の変容が必要で、その変容には、その新しい価値観を知っている必要がある。だから「新生」と呼ばれる何らかのプロセスが一瞬なら、その価値観のインプットも全て一瞬でなければならない。しかし、そんなことは不可能だ。

 あるいはそれは、「洗礼」のことを指しているかもしれない。確かに洗礼なら、水に浸かるだけだからすぐに終わる。けれどそれは通過儀礼であって、それをしたから人格的にも全く別人になる、ということではない

 単純に考えても、「人を愛せなかった人」が、一瞬で「真に人を愛せるようになる」はずがないではないか。あるとしたら、前回も書いたけれどプログラムを書き換えられたロボットぐらいだ。「聖霊の力で一瞬で変わる」というのは、それくら強引で強制的なことを意味している。たぶん言っている当人らはそんなこと考えないだろうけれど。

 前置きが長くなったけれど、本題に入る。注意点の2つ目、「その変化は不可逆的ではない」

・その変化は不可逆的ではない

 実例から書くと、とても素晴らしいクリスチャンの方がいた。いつも穏やかで、親切で、人のために労するのを厭わない方だった。「聖霊によって変えられた人」がいるとしたらこの人のことだ、と誰もが思うような人格者だった。
 けれどある時、この人が酷い被害を受けた。本当に酷い仕打ちだった。内容は書けないけれど、気の毒すぎて、どんな言葉も掛けられなかった。
 その人は形相も変わり、口汚く加害者をののしった。目の前にいたら殺しかねない勢いだった。まったくの別人になっていた。

 その変わりように、私は人間の本性を見たような気がした。クリスチャン的なキレイ事なんか一切通用しない、本当の人間の姿を見たような気がした。
 たとえば子どもを殺された親が、「この犯人だってキリストが愛された人です。だから許さなければなりません」とか言われたらどうするだろうか。間違いなく、許すどころの話ではない。殺したいのに殺せない、そんな葛藤をするのではないだろうか。

 だからその「変化」は、よく聖霊派クリスチャンが言うような、不可逆的で永続的な変化ではない。「神様にきよめられました。もう汚れることはありません」みたいなことは誰にも言えない。言ったすぐ後に罪を犯す可能性だってある。

 あるいは、その「変化」はそもそも表面的なものだったかもしれない。クリスチャンとして生活するうち、聖書的価値観が身につき、そういう態度や行動が自然にできるようなっただけかもしれない。内面は、外見からではわからない。もちろん本人にはわかっているだろうけれど。

 人の本性とは、イザという時にこそ現れる。平時にではない。普段どれだけキレイに生きていようと、品行方正に振る舞っていようと、その人の正体がそこにあるとは言い切れない。試される時になって、その「変化」の質が問われる。本当に「変えられた」のかどうか、そこでわかるだろう。

 ある牧師は長年、品行方正で「きよい」人物だと思われてきたけれど、結局牧師を続けられない種類の罪を犯して、姿を消した。やはり「変えられて」いなかったか、あるいは表面的でしかなかったのだ。
 今「変えられました」と言う人々も、将来はどうかわからない。
 時代が進み、もっと終末的で危機的な状況になり、もし、食べ物や飲み物を巡って人と人とが争うような世界になった時、彼らはそれでも品行方正を貫けるだろうか。自分の食物を他人に譲って、死ぬ覚悟があるだろうか。

追記)
 こう書くと私が「本当に変えられた」みたいに思われるかもしれないので書いておくと、私は全然変えられておらず、間違いもする。全然「きよく」ない。

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