クリスチャンと安息日について・その2

2014年10月10日金曜日

体験談から

t f B! P L
 安息日について2回目。

安息日に働いてはならない」という主張は、現代においては、「日曜日は教会で礼拝を守らねばならない」という主張に似ている。

 安息日は土曜日だけれど、キリストの復活された朝が日曜日で、今はほとんどの教会がその日曜を礼拝日としている。
 基本的に礼拝は何曜日でもいいし、教会に集うことだけが礼拝ではない。けれど、今は日曜が主流な訳で、それを逃すと「今週は正式な礼拝ができなかった」みたいな感覚になる人も多いと思う。そういう意味で、日曜日に礼拝するというのは大切なことであろう。

 けれど前回紹介した教団みたいに、「安息日は一切の労働は禁止です」と言うのがファンダメンタリズムのそしりを免れないように、日曜礼拝に「絶対出席しなければ祝福されない」と言うのも、原理主義的と言うほかない。

 某学生会もそんなようなことを言っている。公には明言していないようだけれど、真意としては、「日曜に休める仕事に就くのがクリスチャンとして勝ち組」みたいな主張をしている。日曜は何がなんでも教会で礼拝しなければならない、そうでなければ祝福されない、という訳だ。

 けれど、前回も書いた通り、2000年以上前の農耕牧畜社会に比べて、現代社会はより複雑で多様化している。職業は星の数ほどあり、多種多様なサービスが存在し、その社会機能は1日として休まない。たとえば警察にも消防にも医療機関にも運送にも、休みはない。というか休んでもらっては困る。そこで働く個々人は日曜に休むこともあるだろうけれど、それが確約された休日ではもちろんない。

 だから古代のユダヤ文化みたいに、「この日(安息日)は全員休み」みたいなことは、現代では現実的に不可能だ。少なからぬ人々が、日曜に働かなければならない。

 そういう状況を考えてみると、「クリスチャンが日曜に働くなんてダメだよ、教会で礼拝しないと」と言うのも、いささか手前勝手ではないかと思えてならない。
 日曜は働かないと個的に決めるのは、個人の自由だ。けれどその人も社会機能を必要としている訳で、その機能が日曜に働く人々によっても支えられているのを、忘れてはならない。
 某学生会の連中にしても、その「勝ち組意識」が、日曜に働く大勢の匿名者に支えられていることを無視するなら、ただの傲慢ではないか。

 安息日の労働を禁止する律法学者に、キリストはわかりやすい質問をしている。「羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか」(マタイ12章11節・新改訳)
 別の箇所でも「安息日にしてよいのは善か悪か」と聞いていて、善行を推奨している。そしてその善行というのは、教会で礼拝することを指しているのではない

 私は日曜礼拝を否定したいのではない。礼拝はできる限りすべきだと思う。ただ、絶対休んで礼拝しなければダメだ、という強硬な主張には、異を唱えたい。
 たとえば日曜日、教会で礼拝中、近隣で大規模な自然災害や大事故が起きたら、彼らはどうするだろうか。教会に害がない限り、礼拝を続けるだろうか。あるいは中断して助けに行くだろうか。

 前者のクリスチャンがしているのは礼拝ではない、ということだけは、ハッキリ言っておく。

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