「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感・その3

2014年9月7日日曜日

「ダビデの幕屋の回復」に関する問題

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「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感、3回目。
 その運動がもたらす結果について、更に事例を挙げてみたい(前回と同じく、これはあくまで個別の状況についてである)。

・礼拝が悪魔との戦いになってしまっている

 リーダーいわく、ダビデの幕屋の礼拝は、最終的に「打ち破り」を目指さなければならない。そして幕屋の構造で言うところの「至聖所」に達しなければならない。
 つまり、毎回の礼拝の中で「大庭→聖所→至聖所」というステップを「霊的に」踏むことが指導されていて、最終的に至聖所に達すると、神様の深い御心が示される、と教えられている。悪魔がそれを阻んでくるので、礼拝の中でそれらと(霊において)戦い、打ち破らなければならない、と何度も聞かされている。

「ダビデの幕屋の回復」は神にとって重要な働きなので、悪魔の攻撃も一層激しいそうだ。だからリーダーいわく、礼拝のはじめはいつも(霊的に)重苦しくて、その重さを振り払うのに苦労するのだそうだ。そんな中、めげずに「力強く」賛美をしていると、次第に天が開けてきて、悪霊たちが「打ち破られて」いくらしい。

 どのようにして「打ち破られて」いくかというと、要はどれだけ盛り上がるかにかかっている。マイクと楽器の大きな音量、会衆の大きな歌声や叫び声、高揚感、熱気、そういうものが混然一体となり、ある時点で最高潮に達する。もうこれ以上大きくできないというポイントに達すると、急速に静まっていく。それは感覚的・習慣的に「打ち破った」と皆が感じるからだ。
 つまり彼らにとって、そのポイント以降が「至聖所」なのである。

 そこで語られること、つまり「思いつくこと」は、至聖所でなければ聞けない「神の深い御心」であって、彼らだけに与えられる秘密の啓示なのだ。そしてそれが、前回の「結界」の話だったり、「自由の女神」の話だったり、エクソシスト的な話だったりする。

 上記の流れは「ダビデの幕屋の回復」の主要な手順だと思うけれど、根本的に、新約聖書の教理と矛盾している

 まず、「大庭→聖所→至聖所」という幕屋的構造で神に至るという手順は旧約の話であって、キリストの十字架によって終わっているはずだ。新約聖書の礼拝はそういう「場所」とか「手順」とかでなく、「霊とまことによる礼拝」という言葉にある通り、「心」を重視している。

 次に、礼拝は悪魔との戦いではない。ただ神に向かう行為だ。それが「打ち破らなければならない」とノルマ化されるのはおかしい。そういうノルマは人の心を神から引き離す。特に礼拝において、意識する必要のない悪魔を殊更に意識させる。
 だから彼らの目的は、神を礼拝することでなく、悪魔を「打ち破ること」になっている。そしてその礼拝に、神様は何の関係もない。

 また、彼らが「打ち破った」あとに達するのは至聖所ではない。それはもう存在しないからだ。彼らが達するのは自己満足の世界であり、自分の王国なのである。そこで「語られる」ことは神様に何の関係もなく、単に「こうであってほしい」という自分の願いの投影でしかない。あるいは「何となく」の感覚でしかない。

 もう一つ付け加えると、彼らが「打ち破る」のは悪魔でさえない。悪魔は怒鳴り声とか叫び声とか、激しい音楽とかで打ち負かされる訳ではないからだ。「いや、それは御言葉を宣言するからだ」という反論があるかもしれないけれど、ならば楽器も歌も使わず、小さな声でそれを読むだけでいいはずだ。
 彼らが「打ち破り」と感じているのは、単に音楽に伴う精神的高揚感でしかないと考えられる。神様は関係なく、悪魔さえも関係ない。聖書を利用し、神を利用し、悪魔を利用した「何か」である。

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