「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感

2014年9月5日金曜日

「ダビデの幕屋の回復」に関する問題

t f B! P L
「ダビデの幕屋の回復」を標榜する教会が、徐々に増えつつあるようだ。
 彼らの目標は、24時間の礼拝を体制化することにある。カンザスシティのInternational house of prayer(通称I.H.O.P.)みたいなものを理想としている。そして「終わりの時代の主の御心を知り、それを行う」ことを目指している。

 なぜ24時間かというと、歴代誌にみられる「ダビデの幕屋」がそのような礼拝スタイルだったからだ。そしてなぜその幕屋を「回復」するかというと、アモス書9章11節が、「ダビデの倒れている仮庵を起こす」と言っているからだ。
 だから「ダビデの幕屋の回復」は主の御心だ、というのが彼らの主張だ。

 これに対する根本的な疑問の一つは、現代社会において「ダビデの幕屋」をそのまま回復することが御心なのか、という点だ。「聖書は文字通り受け取るべきだ」という主張に従うなら、その通りかもしれない。けれどそんな単純な話ではない。

 たとえばダビデが幕屋の中心に据えたのは、「契約の箱」だった。それは「契約」をされた神様を賛美し礼拝するためだった。
 けれど「契約の箱」が意味するのは「古い契約」だ。そしてそれは、イエス・キリストによって既に「新しい契約」に変更されている。また、「契約の箱」そのものは歴史の中で失われたけれど、「新しい契約」がある以上、もう「古い契約」も、物理的な「契約の箱」さえも必要ない。仮に箱が現存したとしても、それを中心に据える必要はない(むしろ据えてはならない)。私たちが中心に据えるべきはキリストの「新しい契約」であって、それは「隣人を愛すること」に集約されると言っていいからだ。
 そして礼拝形式が云々とか、24時間続けろとか、そういうことをキリストは一切言っていない。

 こういうことを言うと、ダビデの幕屋回復論者はこう反論するだろう。
「しかし今は終わりの時代だ。終わりの時代にふさわしい御心があるのだ。そしてそれがダビデの幕屋の回復なのだ」
 確かに、今は終わりの時代かもしれない。しかし西暦1世紀を生きたパウロも、そう信じていた。今は終わりの時代だと。ではなぜパウロの時代に、その幕屋は回復しなかったのだろうか。そしてパウロが間違っていたと言うのなら、なぜ自分たちが間違っていないと言えるのだろうか

 もちろん、神様は私たちの自由意思を尊重され、選択を尊重される。だからたとえばI.H.O.P.のような礼拝も許されるし、24時間礼拝しない教会も許される。いろいろな教団教派に分かれることも許される。
 というか、そんな形式の違いを神様は気にされないと私は思う。むしろ神様が気にされるのは、それが果たして「新しい契約」を実行しているかどうか、ではないだろうか。すなわち、その活動が隣人を愛することになるかどうか、だ。

 そう考えると、「ダビデの幕屋」という形式が大事で、それをそのまま回復することが御心だ、と言うのも、違和感がある。終わりの時代だからと言ってそういう特別な活動を始めなければならない、という考え方もしかりだ。この点は以前にもちょっと書いたけれど、それは試験前夜になって徹夜の詰め込み勉強を始めるのに似ている。

 あとは、結果で見るべきだと思う。
 すなわち「ダビデの幕屋の回復」を言う教会やクリスチャンがその活動の結果、どんな影響をもたらしているか、という点で見るべきだ。
 この詳しい事例については、次回に触れてみたい。

QooQ