神の「召し」を誰がどうやって確認するか、という話・その3

2014年9月4日木曜日

「召し」に関する問題

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 神の「召し」について3回目。
 今回は「神からの高い召し」という表現について考えてみたい。

 たとえば「〇〇さんは神から高い召しを受けている」みたいなことを言う人がいる。だいたいが尊敬の念や畏敬の念が付随している。「高い召し」だから特別だ、すごいんだ、偉大なんだ、という意味合いがあるのだろう。
 けれどこの場合、「高い」とはどういう意味なのか、何が高く、何が高くないのか、誰がどうやってその高低を決めるのか、ということについて、まず言及してほしいと私は思う。
 たとえば牧師は「高い召し」で、一般信徒は「低い召し」なのだろうか。一般信徒の中にも「召し」の高さの序列があるのだろうか。そしてそれは何を根拠に決まるのだろうか。
 そういうことをまったく考えずに「高い召し」を連発しているとしたら、はっきり言って浅はかだ。

 この「高い召し」には、優劣とか大小とか高低とか、そういう競争原理、あるいは階級制度的な発想が潜んでいるように思える。この考え方をする人は、「自分はパウロには及ばない」とか、「あの牧師には劣る」とか、「でもあの信徒には勝ってる」とかと、立場の優劣を密かに気にしている。

 もちろん、歴史を振り返ってみると、「この人は偉大なことをした」「あの人は大きなことを成し遂げた」と評価される人物がいる。たとえばマーティン・ルーサー・キング牧師。アメリカで公民権法の成立に多大な貢献をし、人種差別撤廃を成し遂げた。
 では彼の「召し」は、他の人に比べて「高かった」のだろうか。

 私が思うに、「召し」は高低で分類するものではない。たとえば牧師の召しとか、礼拝の受付の召しとか、会堂掃除の召しとか、そういう種類の違いがあるだけだ。そしてあえて数量的に比較するとしたら、それらの召しは、「他者に対する責任の大小」という点で比較できる。
 たとえば牧師が毎週礼拝説教をして、10年間続けたら、それを聞く人々の人生に大きな影響を与える訳で、その責任は非常に大きい。けれど会堂掃除にはそこまでの影響力はないだろうから、他者に対する責任も小さくなる(かと言ってなくなる訳ではない)。
 だから、「召し」にはそれぞれに、他者に対する責任の大小があるのだと思う。

 ここで、じゃあ責任の大きい「召し」は偉大なのか、特別なのか、すごいのか、と言ったら、そうではない。たとえば牧師の「召し」があると(何らかの方法で)確かに認定された人が、生涯牧師にならず、ただ毎週礼拝に参加するだけだったら、「彼は偉大な牧師だった」とはならない。けれどたとえば、毎週日曜日に誰よりも早く来て、玄関のスリッパをきれいに拭いて、きちんと並べておくというのを「自分が仕えるべきところ」」と信じる人が、それを何十年間やり続けたとしたら、その人はきっと忠実な信仰者、偉大な信仰者と言われる。
 だからある人の偉大さ、すごさ、忠実さを決めるのは、その人の「召し」ではない。あくまでその人が何を考え、何をしたか(し続けたか)にある。

 キング牧師には、確かに「責任の大きな召し」があったのかもしれない。けれど彼を偉大にしたのはその「召し」でない。人種差別撤廃を自分の使命として活動した、その生き様にあるのだ。

 という訳で、「召し」という外面の飾りが重要なのではない。けれど人間はどうしても、見えるものに注意がいく性質がある。だから冒頭のような、「あの人は高い召し」的なつまらない価値基準が出てくるのだろうと思う。

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