一方的で勝手な「和解」の決めつけ・その3

2014年9月29日月曜日

「和解の務め」に関する問題

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「和解の務め」の問題点について、3回目になるが書きたい。
 
 この活動の問題点は、一口に言えば「一方的」なことだ。ある地域や場所について、一方的に「禍根がある」と決めつけ、勝手にやって来て、勝手に祈ったり叫んだりして、一方的に「和解できた」と決めつけて行く。誰も頼んでいないし、もし頼んだとしてもそういう形の謝罪や和解を願っているのではない。けれどそんなことお構いなく、結局のところ自分たちが「霊的に」満足できればそれでいいのである。
 とても、その地域の人を大切にしているとは思えない。とんだ「和解」である。
 
「和解の務め」推進教会は、前回も書いた通り、だいたい歴史的な事柄を取り上げる。太平洋戦争しかり、関ヶ原しかり、明治維新しかり。他にも沢山ある。けれどそういった出来事は、どう考えても禍根を残している。いちいち祈って示されるまでもない。想像すればわかる。東京大空襲で炎に焼かれた一般の人々が、何の恨みもつらみもなく死んでいったはずがない。他にも歴史上、理不尽に殺された人はたくさんいるし、とても数えきれない。人類の歴史とはそういうものだ。残酷で理不尽な死で溢れている。

 くわえて、歴史に残らない理不尽な死だって相当ある。私たちの知らない、想像すらできないところでも、人々は不条理な死を迎えているはずだ。
 
 それなのに、歴史的に有名で、どう考えても禍根をたくさん残しているだろう事柄だけを取り上げて、「主がこの和解を願っておられる」と言うのは、明らかに不公平だ。もしそれが本当に神様からのものなら、神様が不公平で意地悪だということになる。何故なら、ある殺人は特別に和解が必要で、そうでない殺人はべつに必要ない、という話になるからだ。それは人の命の重みに、差別を付けることになる。
 
 また、もし神様がそういう理不尽な死の和解を望んでおられるなら、私たちは全ての殺人事例を、太古の昔にまで遡って調べなければならない。それが無理なら、何らかの方法で神様から教えてもらわなければならない。そしてできるだけ大勢で手分けして、時代や地域別の名簿を作り、この殺人は和解成立、これはまだ、みたいな作業をしなければならなくなる。おそらく、礼拝どころではない
 
 結局のところ、「和解の務め」推進教会は、わかりやすくてドラマチックな「和解」を演出したいだけなのだ。
 たとえば会津の白虎隊の「和解の務め」など、さぞ感動的だろう。若くして散っていった志士たちの無念を「主にあって」「霊的に」贖い、和解をもたらすのだから、それは大変なお涙頂戴ムードになるだろう。彼らお得意の、涙と感動のショータイムだ。
 しかしその行いは、はっきり言って死者を冒涜している。(たとえば白虎隊の例で言えば)若くして死んでいって可哀想、気の毒だ、とか思うまではいいけれど、「自分たちの祈りでそこに十字架の血潮を適用し、その無念を晴らしてやった、彼らの禍根は解決した」とか言うのは、死者に対する敬意などではない。死者を利用して、自分たちを何者かに引き上げようとしているだけだ。
 
 という訳で、やはり「和解の務め」は間違っている。もし将来、あなたの教会の牧師がそういうことを言い出したら、よくよく注意するように私は勧める。

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