一方的で勝手な「和解」の決めつけ

2014年9月27日土曜日

「和解の務め」に関する問題

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「和解の務め」を言うクリスチャンがいる。
 
 キリストが十字架で、神と人との和解を成し遂げた。そのキリストの弟子である私たちクリスチャンにも、同じ務めがある。すなわち「和解」のために行動しなければならない、という。
 
 その文脈で言うと、未信者に福音を伝えて信仰に導き入れることが、私たちの「和解の務め」だと考えられる。神と未信者との和解になるからだ。それならすんなり理解できる。けれどそれは、「和解の務め」なんてややこしい言葉でなく、単に「伝道」と言えば済む。
 
 けれど彼らの言う「和解の務め」はちょっと違う。
 たとえば国と国、地域と地域、集団と集団のいろいろな対立を取り上げては、「私たちが主にあって和解の務めをしなければならない」と言う。
 一例を挙げると太平洋戦争時代、日本はアジア諸国を統治したけれど、その謝罪が十分でなく、今も各国と「霊的に」わだかまっている、という。だから現代の私たちが、祖父らに代わって謝罪しなければならいそうだ。
 他にも、関ヶ原の合戦以来、日本は東西が「霊的に」いがみ合っているから「和解」しなければならないとか、会津藩は幕府に恨みがあるから「和解」しなければならないとか、まあそういう歴史をいろいろ調べてきては、祈りの場に持ち寄るのである。
 
 それで彼らがどんな「和解」をするかと言うと、簡単に言えば、現地に行って祈る
 まず現地に入ったらプレイヤーウォークなどして、「霊的に重要な地点」を(感覚頼みで)探し出す。そしてその地点に行ったら、どんな種類のわだかまりがあるのか、争いがあるのか、どんな悪霊が働いているのか等、祈りによって(感覚頼みで)知る。それで戦う対象がわかったら、今度は「霊の戦い」である。叱ったり怒鳴ったりして、悪霊を(感覚頼みで)退ける。そして決め台詞はこうだ。
「主にあって和解の務めを果たします」
 その一連の活動が終わると、ハレルヤ、主の勝利、歌えや踊れや、となる。
 
 それでその地の「和解」が成立して、何か良いことが起こっていくなら、こんな簡単な話はない。
 しかし実際のところ、それでアジア諸国がいつの間にか納得している、なんてことは起こらない。巨人ファンと阪神ファンが全員仲良くなるなんてこともない。会津の人たちが急に感動して泣き出すこともない。
 結局のところ、それは彼ら自身の「内輪受け」、あるいは独り善がりならぬ「教会善がり」なのだ。勝手に「わだかまりがある」と決めつけ、勝手に戦い、勝手に祈って「和解させた」と言い張っているだけだ
 なぜなら、聖書はそういう種類の和解を仲介しろなんて言っていないからだ。
 
 それに聖書を持ち出すまでもなく、それが本当の「謝罪」とか「和解」とかでないのは一目瞭然だ。なぜなら謝罪とは、当事者が当事者に謝ることだからだ。和解も、当事者どうしがするものだ。彼らのように勝手に行って勝手に祈ったから成立するものではない。それでも彼らは「霊的に・・・」とか言うかもしれないけれど、そんなの現実世界では何の役にも立たない。
 
 一万歩ほど譲って、仮にそれで謝罪や和解が成立すると言うなら、次のケースについてどう考えるだろうか。
 
 アメリカは日本に2度も原爆を落としたけれど、公式な謝罪はない。むしろ「戦争を早期終結させてやった」とか言っている。けれど多くの日本人はそれを納得していないし、どこかで怒りや憎しみをい抱いている(と思う)。
 これは、彼ら風に言えば「霊的にわだかまっている」状況であろう。
 ここで、アメリカのクリスチャンらが、「和解の務め」をしようと来日する。そして広島や長崎を巡り、プレイヤーウォークをして「重要地点」を探り、そこで「霊の戦い」をし、悔い改めの祈りをして、「和解成立」と宣言したとする。
 日本人はそれを知ったら、本当に「和解」として受け入れるだろうか。
 
 少なくとも私はそういう形の「和解」は受け入れない。アメリカに対する個人的恨みはないけれど、そういう問題ではない。全然関係ない奴らが何も言わずに勝手にやって来て、勝手にやって勝手に宣言しただけで、自分とは何の関係もないからだ。むしろ、それで「和解した」とか言われても困る。
 だからそれは謝罪や和解でないどころか、何の意味もないパフォーマンスでしかない
 
 同じようなことをしていると思い当たった方がいたら、是非とも考え直すことをお勧めする。
 

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