エキサイティングというより、単に節操のない信仰生活・その2

2014年9月14日日曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 前回は、海外からゲストが来るたびに方向性を変える教会について書いた。

 毎月のように海外ゲストに語られる「新しいこと」にすぐ飛びつき、以前あったものを簡単に投げ捨ててしまう。それは彼らが言うような「エキサイティングな信仰」でなく、単に節操がないだけだ。その姿勢を聖書的に表現するなら、「教えの風に吹きまわされて」いるということになる(エペソ4章14節・新改訳)。

 そうは言っても、きっと彼らはそんなこと認めない。「いや、うちの教会はしっかり学ぶ体制がある」みたいなことを主張する。そしてきっと、週一とか月一とかの「学び会」やら「バイブルスタディ」やらの存在を強調する。
 けれどそういった「学び」がどれくらいの科目数があって、個々がどれくらい体系的かは大いに疑問だ。その証拠に、彼らにたとえば「油注ぎって何ですか」とか聞くと、ほとんどの人はまともに答えられない。答えられても「聖霊の力が云々」とか、曖昧で要領を得ない。教会内で教えが混乱しているのがわかる。

 何故なら、彼らの「学び」は圧倒的に時間数が少なく、ほとんど体系化されておらず、かつその牧師のメッセージと同じで「感動」が中心だからだ。まともな学習になるはずがない(頑張っている人には失礼だけれど)。

 私は現在通信制の大学で学んでいるけれど、一つの単位を取得するにも、相当なコミットを要求される。毎回の授業は無味乾燥で、感動などほとんどない。予習も復習も大事だ。
 それに単位を取得できたとしても、その科目に完全に通じたとは言えない。単に試験に合格できたというだけだ。単位を取っても勉強を継続しないと、知識はどんどん抜け落ちていく。

 だから「うちの教会はよく学んでいます」とか言うのは自由だけれど、あとで恥をかかないように、言葉は慎重に選んだ方がいいと思う。

 と、いうような状況にくわえて、毎月のように海外ゲストを迎えるのである。ゲストたちはそれぞれ「お得意の」メッセージを教会に話していく。そして教会は大いに感動して、その語られたことを早々と取り入れてしまう。
 そうやって取り入れられたものに、たとえば「弟子訓練」とか、「ディボーション」とか、「教会成長」とか、「教会繁栄」とか、「笑いの霊」とか、「ダビデの幕屋の回復」とかがある。それらが教会に与えてきた影響を考えれば、その姿勢がいかに軽率だったか、一目瞭然ではないだろうか。

 そういう姿勢になってしまう原因の一つに、前述の「ちゃんと学んでいない」状況があるだろう。神学的基盤がないため(彼らはあくまで「ある」と主張するだろうが)、刹那的に「新しいもの」に流れていってしまう。けれど聖書をしっかり教えられており、自分の身に深く刻まれているならば、新しく入ってきたものに対する是非は明確に付けられるだろう。

 またもう一つの原因として、海外(特にアメリカ)に対する劣等感みたいなものがあると思う。アメリカのものはいいものだ、海外のものはいいものだ、新しいものはいいものだ、みたいな意識(あるいは無意識)が、日本人には少なからずあると思う。私も子どもの頃は特にそう感じていた。日本はダメだ、みたいな劣等感も何故かあった。そういう意識を自覚して、「そうでもないな」と思えるようになったのは、私の場合大人になってからだ。

 終末に関する記述の中でキリストが「惑わされないように」と言っていることに、何度でも注意したい。今、教えの風に吹きまわされている人たちが、その時になって惑わされずに済むとは思えない。そういう人たちに限って終末を声高に叫んでいるけれど、知識のなさを露見しているように思えてならない。

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