「神に語られた」の誤り・あるいは思い込み・あるいは捏造・その3

2014年8月25日月曜日

「啓示」に関する問題

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「神に語られた」の乱用について3回目。「語られ方」の誤りの続き。
 
・思いに「語られた」
 
 同じく、クリスチャンが何かの選択をしなければならず、しばらく悩んだり祈ったりしている時、その「思い」というか「意識」というか、そういう部分に、何かしらのアイディアが生まれる。それはイメージだったり抽象的なモヤモヤだったり、言語化できない何かだったりする。あるいは睡眠中の夢という形で現れるかもしれない。
 そしてそれが、自分の直面している選択と無関係でなく、いわば「祈っているからこそ湧き上がったアイディア」、つまり神様からの「語りかけ」のように思える。
 
 その「語りかけ」に従って何かを選択し、結果が良いように思われると、「あれは神様が私の思いに語って下さったのだ」となる。
 この「思いに語られた」は、本当に神からのものだろうか。
 
 これは、前回の「人を通して語られた」とよく似た構造を持っている。前回のは、いろいろな人のいろいろな言葉の中から、自分にとって都合の良いものだけを選ぶという「確証バイアス」だったけれど、これはその舞台が、自己の内面に変わったものである。
 
 およそクリスチャンは普段から聖書を読むだろうし、真面目な人や信仰歴の長い人なら、全巻通読も何度かしていると思う。だから聖書の言葉をたくさん覚えているし、細かく覚えていなくても、どのへんにどんなことが書いてあるか、だいたい把握している。
 そういう人が何か選択しようとする時、聖書知識が働くのは、しごく当然のことだ。ほとんど無意識的に、「聖書のここにこう書いてあるな」「あの箇所はこう言っているな」などと考えて、自分の選択に必要な情報を探っている。
 
 もちろん聖書は神様からのメッセージなので、その言葉を思い出すのは、広義には「神に語られた」と言える。「思いに語られた」と言っていいかもしれない。
 けれどこの場合、前述の確証バイアスが働くことが、十分考えられる。
 
 たとえば、聖書は時に相反した二つのことを言っている。有名な例で言うと、「信仰は行いによるのではない」と、「行いのない信仰は死んでいる」である。ある選択に際して、何か行動すべきと思っている人は後者を強く思うだろうし、行動したくないと思っている人は前者を連想するだろう。つまり、自分の状況に応じた聖書箇所を無意識的に選ぶのだ。

 これは聖書の広大な知識の中から、自分の都合の良いものだけを選ぶ、という形の確証バイアスだと言える。もちろん前述のように、聖書は神からのメッセージだから、聖書を思うことによって「思いに語られる」ことはあり得る。けれどそこに無意識的な選択が入り込み、自分の都合の良いこと、こう語られたいと願っていることに絞られていくとしたら、そのプロセスに神様は一切関係ない。そういうのは「語られた」とは言わない。
 
余談)
 牧師の中に、「淡いセンセーション」という表現を使う人がいる。淡いセンセーションとは、何となく心に浮かんだ印象、みたいなものだ。
 それが神からのものか、単に自分自身のものか、判別できないことがある、という。もしかしたら神からのものかもしれないし、そうでないかもしれない。その場合どうするかと言うと、(牧師いわく)「とりあえずやってみる」のだそうだ。
 
 とりあえずやってみて、何か良い結果だったり、神様の栄光が現されるような結果に至ると、「そのセンセーションは神からのものだった」と言える。逆にそうでなかったら、「単に自分自身の思いだった」となる。
 
 これは、神に語られたかどうかを判断する方法論的には、面白いかもしれない。
 けれど結局のところ、「とりあえずやってみて、うまくいったら儲けもの」という「ダメもと」的判断であって、見えないものを信じるという信仰とは違う。初めから神からのものと確信していない訳だから、少なくとも信仰から出た行いではない。

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