牧師に気に入られるという「霊性の高さ」

2014年8月12日火曜日

「霊性」問題

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「霊性」に関して4回目。
今までの内容をまとめると、

1回目
  聖書から逸脱した内容でも、「主からの啓示」と言い張る。霊性が高いから示されたのだと。

2回目
 その「主からの啓示」は、容易に想像できるもの、状況から判断できるものが大半である。

3回目
「霊性の高さ」とは、どれだけ盛り上がるか、威勢が良いか、元気かにかかっている。

 この3回目で、「霊性の高さ」は結局のところ能力主義につながっているとも書いた。つまり元気の有無と同じく、何ができるか、できないか、という能力が、霊性の判断材料にされてしまう。引用すると、

 大声で叫んで祈るという行為には、それだけの確信と、聖書的根拠(自分なりの)と、大胆にやろうという覚悟とが必要である。(中略)それができる人は「霊性が高い」という評価を受ける。

 これはもちろん能力に関する話であって、「霊性」は関係ない。
 しかしそういう教会の牧師に言わせると、「霊性は実際面に影響する」ということである。つまり祈ったり何だりで「霊性が高められて」いくと、実際的な能力も高まっていく、ということだ。
 これは、チャーチスクールで勉強が苦手な生徒に、「信仰が成長すれば勉強もできるようになる」と無責任に言うのに似ている。

 勉強に関して言えば、たとえば信仰なり家族関係なり友人関係なりが安定し、本人の気持ちが落ち着くことで、勉強に集中しやすくなり、結果として勉強ができるようになる、ということはある。けれどこれと同様の図式を、「霊性と能力」の関係に当てはめるのは強引な話だ。

 なぜなら、霊性という、その実態も定義もよくわからないものが、何らかの方法で「成長」し、それと関連して実務的な能力も向上していくとしたら、能力的に何もできない人は霊性ゼロということになるからだ。あるいは逆説的に、もともと能力のある人は(未信者であっても)霊性が高い、ということになる。

 そういうことが明に暗に強調される教会には、能力的に貢献できない信徒の居場所はない。役に立たないクリスチャンは、霊性が低いだとか、不信仰だとか、罪があるとか、いろいろ根拠のない悪評を突き付けられる。あるいは無視される(ちなみにここで言う「役に立たない」とは、神様にとってでなく、牧師にとって役に立たない、有用でない、という意味だ。神様にとって無用な人間など存在しない)。

 だからこの場合の「霊性が高い」とは、実は牧師に気に入られるかどうかが基準となっている。単に能力だけの話ではない。能力があっても牧師とウマが合わなかったり、牧師に意見したりすると、「気に入らない=用がない=霊性が低い=あっち行け」ということになる。逆に能力がなくても、見た目が良いとか、お金があるとか、どこまでも牧師に従順だとか、そういうことで霊性が急上昇するのである。
 
 前回と同じ結論になるけれど、そういう「霊性」は必要ない。

 あるいはそういう教会で楽しくやっていきたいのであれば、その「霊性」は必要である。牧師に気に入られるのはほとんど唯一の生命線だからだ。
 しかしそこで行われるのは、キリスト教の信仰生活ではない。キリスト教に見た目が似ている、「牧師崇拝生活」だ。もはやクリスチャンではない。

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