2014年7月4日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第36話

 家に帰ったキマジメくんは、さっそく「聖霊のバプテスマ」を求めて祈り始めた。机に向かい、聖書を開き、目を閉じた。しかしすぐに行き詰まってしまった。「聖霊のバプテスマを与えて下さい」と祈る以外、何を祈ったらいいか、わからなかったからだ。

 とりあえず、聖書を読んでみた。聖霊のバプテスマと言えば「使徒の働き」2章だろう。他にも福音書の関連箇所とか、パウロが異言について書いている書簡とか、探して読んでみた。
 聖書を読んでいると、なんだか霊的になれた気がする(実は「霊的」がどんな状態なのかもよくわかっていなかったけれど)。とにかく、聖書を読んでいれば間違いないはずだった。

 しかし結局のところ、聖書を読んでいてもバプテスマの兆しは何もない。「求めなさい」と書かれているから、やはり祈って求めるのが正攻法なのだろう。
 同じことを繰り返し祈っても意味がない気がする。しかし一方で、諦めずに求め続けるのも大切な気がする。いずれにせよ、「聖霊のバプテスマ」がどのような感覚で与えられるものなのか、全くわからない。何を待てばいいのかわからない。あるいは聖書にある通り、突然炎のようなものが下ってきて、異言が溢れるのだろうか。教会の人たちはどのようにして与えられたのだろうか。
 キマジメくんは早々に頓挫してしまった。
 それより、今週中に仕上げなければならないポスターとか、たまっている雑務とかが気になる。時間を無駄にできない。祈りに進展がないなら、教会の奉仕を優先してもいいはずだ。そう自分に言い聞かせると、キマジメくんは聖書をどかし、ノートパソコンを開いた。

 それから一週間、時間を見つけては、聖霊を求めて祈った。聖書の同じ箇所を繰り返し読み、黙想し、何か起こるかと待ってみた。しかし毎回何も起こらなかった。次第に、何か間違っているのではないかと思えてきた。聖霊を求める「手順」みたいなものがあって、それに即してやらないとダメなのではないか。求めるだけで与えられるなら、とっくに与えられている気がする。
 これはやはり経験者に聞くしかない。経験者ならどうすべきかわかるはずだ。キマジメくんは何人かの教会員の顔を思い浮かべた。誰に聞いたらいいだろう。とりあえず一番聞きやすい、ノンビリ兄弟に電話することにした。

「聖霊様ね、それはひたすら祈り求めることだよ」
 ノンビリ兄弟は即答した。「大丈夫だよ、キマジメくん。神様は求める者に惜しみなく聖霊様を与えて下さるよ。ただ、個人個人で導かれ方が違うからね。早い人もいれば、時間がかかる人もいると思うよ。でも、求めてさえいれば大丈夫、道は必ず開かれるよ」
 キマジメくんはすがりつくように尋ねる。「あの、どういう感じで与えられるんですか?」
「そうねえ、それも人それぞれだと思うけど、なんかこう、腹の底から何かが沸き上がってくるような、止めようにも止められないような、そんな感じが多いって聞くよね」
「ノンビリ兄弟はどうだったんですか?」
「僕? 僕はねえ、溝田先生に特別に祈ってもらっている時に、自然と出てきたかな。やっぱり僕も聖霊のバプテスマを求めている時だったよ」
「溝田先生に、ですか」
「うん。やっぱり、油注ぎのある人に祈ってもらうのは違うよ。神様がその人を通してダイレクトに働かれるって言うかね。やっぱり霊的権威っていうのはあるんだろうね」
「はあ・・・」
 やはり自分ひとりでは難しいのだろうか。溝田牧師に祈ってもらうのが手っ取り早い気がする。
 幸い、明日は日曜日だ。礼拝の後、溝田牧師に相談すれば、祈ってもらえるかもしれない。

 ところで「油注ぎ」というのも馴染みのない言葉だった。時々礼拝のメッセージで出てくるけれど、よく意味がわからなかった。とにかく信仰に進んだ人に与えられるものだろうと想像できた。溝田牧師にあって自分にないもの、強さとか大胆さとか、力強い祈りとか、奇蹟とか癒しとか、そういうものの根源がきっと「油注ぎ」なのだろうと思えた。
 そして教会に献身しようとする自分には、絶対に必要なものだろうと思えた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2 件のコメント:

  1. |「聖霊様ね、それはひたすら祈り求めることだよ」

    まるで板場か伝統芸の現場のような言い方。
    目で盗めとか、考えるな動けとかな、回答の仕方。
    そりゃ、そういうやり方でないと技術や芸が継承できない世界であれば、仕方はないのだけど、福音がそういう伝え方でいいのだろうか?
    キリスト教は、聖書のみ恵みのみ信仰のみのはずが、受け取る側の資質や性格によって継承が変質したり、伝える側のせいで信仰がひとによって違うということになったり、または聞く側に対し、あなたは失格だとか見込みがないとかということになったりしないだろうか?

    福音派聖霊派は、言葉や道理ですべて解決しようとはしないのだと、あらためて思ってしまうのです。

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  2. はじめまして。
    ノンビリ兄弟のおっしゃっている事は、確かにそうだと思います。私の場合も求め方が分からなくて断食祈祷院に行って求めました。でも、自然に異言が出て来たので、感動とか喜びとかなくて「これか~まあ良かった」くらいでした。でも最近になって異言の恵みってスゴイなー感謝だなーとやっと気づいた所です(^_^;)もちろん異言が話せない人でも霊的な方は沢山おられるので品性とは関係ありません。でも異言は神さまからの素敵なプレゼントです。普段は10分も祈れない私が、何時間でもお祈り出来ますし、気分に左右される事なく熱心になっています。
    以前は異言を与えられているのに、宝の持ち腐れでした。まあ今気づいたので良かった事にします(笑)

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