初めて教会に行く前にすべきと思うこと

2014年7月25日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 クリスチャンホームでなく、キリスト教に関わったこともない人が、生まれて初めてキリスト教会に行ってみるとする。その人はどういう基準で、どんな教会を選ぶのだろうか。そしてその後、どのような経過を辿るであろうか。

 おそらく少なからぬ人々が、友人の誘われたからとか、近所にあるからとか、何となく入りやすかったからとか、そういう理由で教会に行くのではないかと思う。つまり事前に、キリスト教がどんな宗教で、どんな歴史があって、どんな教派があって、ここの教会は何派、あそこの教会は単立、などとしっかり予習したうえで選ぶという人は、そう多くはないと思う。

 だからそういう人にとって、初めて行った教会が、その人にとっての「キリスト教」となることがある。聖書解釈においても、「神」のイメージにおいても、あるべきクリスチャンの姿においても、その教会のスタイルがお手本となる。そして他の教派がどんななのか、どう違うのか、なぜ違うのか、という点については特別触れられることもなく、年月が過ぎていく。だから熟練クリスチャンとなっても、そういうことを全く知らない、という人が多くなる。下手すると、自分の教会が唯一正しく、他の教会はどこかが間違っている、同じクリスチャンとしてとても残念だ、と思い込むようになるかもしれない。

 もちろん、ある一つの教会を選ぶということは、ある一つの聖書解釈を選ぶ、ということに繋がっている。什一献金しかり、洗礼しかり、聖霊しかり、その他諸々しかりだ。だから自分が選ばなかった教会については、どこか同意できない部分がある、ということになるのは仕方がない。
 ただ、それは「同意できない」と言うに留めておくべきで、「間違っている」というのは言い過ぎだろう(明らかな間違いもあるけれど)。聖書を理解することは、数学の計算問題を解くのとは全然違うからだ。一つの明確な答えが、わかりやすく出る訳ではない。

 しかし人生で初めて行った教会の教えや雰囲気や人間関係に順応してしまうと、他の教団教派の聖書解釈、別のアプローチ、異なる在り方を、認めにくくなる。教会生活が長くなればなるほど、その傾向は強くなる。これは、たとえばヒヨコが初めて見た物を親だと思い込む「刷り込み」現象にも似ている気がする。すでに物理的にも精神的にも自分の居場所となった場所を、今さら否定できないのだ。

 まして教会(というか牧師)の方針として、他の教団教派を否定的に見るところでは特にそうだ。よく活動的な聖霊派の教会などが、伝統的な教派を取り上げて、「信仰が死んでいる」「真理に目が開かれていない」などと決めつけることがある。それを聞いた信徒は、「自分たちが正しいのだ」と思う。つまり、「正しいか間違っているか」の二元論に落とし込まれ、どちらも良いのでは、という視点が奪われてしまう

 そこまで他教派を否定的に見ない教会であっても、新しい信徒に教えるのは、自分たちの聖書理解である。いちいち他教派の教えに触れることはないだろう。たとえば什一献金を肯定する教会であれば、什一献金は当然のことであって、それを裏付ける方向で聖書を使う。決して否定的な使い方はしない。そしてそこには、既にある種の「囲い込み」が発生している。

 だから何も知らない人が、初めて行った教会に定着し、そこで1から信仰を育むというのは一見良いことに思えるけれど、大きな危険を含んでいる。複数の聖書解釈、複数の在り方があり、どれが正しいとか間違っているとか、そういう単純な話ではない現実があることはちゃんと知っておくべきだ。
 そしてそういう客観的な視点で見られるのは、多くの場合、一つの教会に定着する前である。

 それゆえ、初めて教会に行くという人は、キリスト教についてよくよく予習してからにすべきだと私は思う。あるいは教会側で、そういう情報を提供すべきかもしれない。

 たとえば進学先とか、就職先とか、引っ越し先とか、家を購入するとか、そういう人生の一大事にある場合、多くの人はできるだけたくさん情報を集め、よくよく検討し、いろいろ考えてから決めるだろう。教会選びもそれと同じようなことのはずだ。
 けれどそこまで十分に検討されないとしたら、それはそれだけの価値が教会にない、ということかもしれない。

QooQ