クリスチャンと成長・その4

2014年7月19日土曜日

「クリスチャンと成長」の問題 生き方について思うこと

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「鷹の選択」という動画があって、SNS等でちょっと話題になっている。鷹の生涯の後半に訪れる試練と再生を題材にしていて、大いに感動したり、励まされたりする人もいるようだ。

 いろいろなサイトで同じような説明がされているけれど、簡単に書くとこうだ。
 鷹は40歳くらいでクチバシやツメやハネに問題が起きて、それまでのように飛んだり食べたりできなくなる。そのまま死ぬ個体もいれば、自らクチバシやツメを破壊し、ハネを抜いて、新しく「生まれ変わる」個体もいる。後者は70歳くらいまで生きる、という。つまり、苦難に耐え、もう一度生まれ変わる(やり直す)決意と勇気を持つことの素晴らしさをそこに見出す、という訳だ。

 それはまあ鷹の本能的な生態であって、そのまま人間に当てはめることは当然できない。苦難に耐えて生まれ変わるのが良いことだと、一方的に決めつけられても困る。けれど、この話自体は良いと私は思う。体が衰退してそのまま死んでしまう鷹と、もう一度やり直そうと「ロッキー」みたいに努力する鷹とがいたら、やはり後者を応援したくなる。努力して何かを得る、報われるというのは良いことだ。もしそうならなかったら、人は何かしら理不尽を感じるだろう。
 私個人も努力するのは良いことだと思うし、それが報われるのは更に良いことだと思う。

 けれど、この動画を見て「感動した」と言うクリスチャンを見ると、ちょっと警戒してしまう。というのは、クリスチャンの「成長」にこの話を結びつけるような気がしてならないからだ。
「クリスチャンも試練の時は、鷹のように自分のクチバシを砕き、ツメを抜き、ハネをむしり取るような努力をしなければならない。そうしないともう一度飛び上がれない」みたいな根性論を、礼拝のメッセージに取り入れる牧師が出てくる気がしてならない。そしてそういうメッセージを喜ぶクリスチャンがいる気がしてならない。けれど、そういうのは個人的には願い下げである。

 もちろん、人間生きていれば、様々な苦境に立つこともある。ストレスフルな日々を過ごすこともある。誰にも助けられず、一人悶々と過ごすこともある。けれどそれが人生というものであって、クリスチャンとしての「成長」とは根本的に関係ない。あるいは苦難を通して人間として成長したから、信仰にも深みが出た、ということはあるかもしれない。けれど、そういう苦難を通らなければ信仰が成長しない、というのは暴論である

 自ら努力しようとすることと、努力を強要されることとは全然違う。どちらがより人を成長させるかと言うと、前者であろう。けれど(一部の)教会を見てみると、後者の「強要された努力」が蔓延している気がしてならない。そしてそれは、成長とは何の関係もない、残念な努力である。

「鷹の選択」に感動するのは良いけれど、その感動は自分の胸の内にしまっておくのが良いだろう。「努力することの大切さ」は、自分自身に言い聞かせるのが良いだろう。
 したり顔のクリスチャンが、そういうメッセージを教会に持ち込むのは、どうか謹んでほしいと私は願っている。

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