2014年7月1日火曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・牧師の愛篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第8話の解説。
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→第8話

 これは、奉仕で理不尽な目に遭ったキマジメくんがついに牧師に腹を立て、それを察した牧師がうまいこと感動的な和解に持ち込む、というエピソードである。カルト化牧師の二面性を表わした話だ。

 カルト化牧師の理不尽さ、横暴さ、自分勝手さを聞かされると、「なんでそんな牧師に従うんだ」という感想になるのが普通だ。そこまで酷い目に遭っているのに従うなんて理解できない、尊敬できるなんてあり得ない、という訳だ。それは至極もっともである。
 けれど、そこにはカラクリがある。

 現在、キリスト教系でもそうでなくても、イロイロな新興宗教がある。それらの宗教の人集めの手法に「ラブシャワー」というのがあって、とにかく魅力的なイベントや条件で人を集め、来た人を思いっきりもてなす。いかにも興味があるふうに新来者の話を聞き、いちいち褒めちぎり、良い所を挙げ連ね、その人にとって居心地の良い場所であるように演出する。そうやってあらん限りの「愛」を注ぐのである。新来者はたいてい気分が良くなって、その見せかけの愛のシャワーに浸ってしまう。そしてその宗教が真理であり、地上か天上で楽園を実現するものだと錯覚してしまう。

 カルト化教会の信徒も、同じようなことを経験している。はじめは誰もが牧師に愛ある態度で接せられる。牧師に細かいことまで気を配られ、助言や実際的なサポートを受ける。家庭内暴力を受けている人が教会にかくまわれたり、いろいろな面で困っている人が援助を受けたりする。そういう経験を通して、「この牧師先生は本当に愛に溢れた方だ」「この教会は真理の教会だ」というようなイメージを固定化していく。

 しかしある程度の期間が過ぎると、様子が変わる。牧師から愛の態度が消え、搾取が始まるのである。「神から恩を受けたのだから、その恩を返すべきだ」とか「キリストのように全てを捧げて仕えるべきだ」とかいうような理屈で、長時間奉仕や高負荷の奉仕をさせられる。断るのは不信仰とされる。しかもキリスト教教理にうまく絡めて提示されるので、いかにも神からのオーダー、聖書のルール、クリスチャンの義務であるかのように思わせられる。それはあくまで牧師個人の要求でなく、神からの要求であって、牧師にしたって従っているだけなのだ、とされる。
 信徒に反論の余地はない。

 それでもあまりの理不尽さに、信徒が疑問を抱くことがある。あるいは腹を立てることがある。しかし牧師はそういう信徒の「反抗」にも敏感だ。すぐに手を打ってくる。どうするかと言うと、初期の頃のラブシャワーを使い回すのだ。あなたを愛している、あなたの為なら何でもする、あなたの為ならこんなミニストリーなんかどうだっていい、みたいなことを囁いて泣かせるのだ。真面目な信徒は感動してしまう。牧師に腹を立てたという罪悪感もそれを手伝う。キマジメくんはまさにこの術中にはまってしまった。

 そうやってラブシャワーと搾取をうまく使い分けてくる。ちょうどアメとムチの使い分けみたいだ。それが「成功」するカルト化牧師の特徴である。

 ちなみにそういう牧師でも、ラブシャワーで挽回できないケースがある。信徒があまりにも腹を立て、あるいは強く疑問に思って、牧師に噛みつくケースだ。牧師はもはやコントロールできない。私は彼らを敬意をもって「勇者」と呼ぶ。しかしカルト化牧師のそういう勇者らに対する選択は、もはや一つしか残っていない。「追放」である。

 この「追放」に関しては、後のセイギ兄弟のエピソードで取り扱いたいと思っている。

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