人生を二元論に陥れる思考停止。「人民寺院」の集団自殺について・その3

2014年6月17日火曜日

カルト問題

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「人民寺院」は最終的に集団自殺にまで至ってしまった。その様態は今で言う「破壊的カルト」の典型例を示している。つまり、

①教祖(牧師)の神格化と信徒の盲従
②信徒の囲い込みと情報統制(暴力と搾取も)
③独自の真理(教理)に基づく救世観と終末観

 である。
 前2回の記事では、この信徒の側の心理について書いた。つまり「肯定のスパイラル」と「本物と偽物の共存」である。今回は信徒のもう一つの心理状態について書きたい。すなわち「思考停止」についてだ。

 変な話だけれど、もし牧師がカルト化教会として成功したかったら、「カリスマ性」が必要となる。これは外見云々というより、人を惹きつける何かだ。たとえば感動的なスピーチの才能とか、大きなビジョンを掲げて人々を扇動する大胆さとか、それに人々を従わせる求心力とかだ。そして取り分け重要なのが、幅広い知識と確かな判断力だ。
「こういう時は○○するのが一番だ」と自信を持って言えて、それが概ね正しいことが必要だ。そうでないと「神格化」までいかない。なぜなら信徒らの「牧師先生の言う通りだった」という経験の積み重ねが、牧師の権威を増す方法だからだ。これに成功すれば、人々は牧師の言いなりになったも同然だ。「先生の言う通りにしていれば間違いない」「先生の判断が一番正しい」となるからだ。

 それは信徒が自分の意思・判断を自ら放棄することになる。自分でどれだけ考えても、結局牧師の判断の方が良さそうだったり合理的だったりするなら、ことあるごとに「先生に聞いてみよう」という発想になる。それが習慣化すれば、はじめから考えること自体放棄して、牧師の判断を仰ぐことになる。

 そうなってしまう原因の一つには、昨今の日本人に多いと言われる、自信のなさがあるかもしれない。
 自分の判断に迷いがある時、牧師から「それじゃダメだよ、こうだよ。簡単なことだよ」とか自信満々に言われ、それがもっともに聞こえると、「やっぱり自分の判断じゃダメだ」となる。
 そういう体験の繰り返しが、牧師の神格化と信徒の盲従という図式を生む。しかしそれこそが信徒の思考停止だ。

 またそこには、間違えたくない、いつも正解したい、そして可能な限りの祝福を受けたい、という信徒の側の貪欲もあるだろう。

 しかし現実の物事は、数学のように明確な答えが出るものばかりではない。時には多くの並列した選択肢がある。どれも一長一短で選びがたいこともある。その中で牧師の判断が一番良いように思えても、それが必ずしも最善とは限らない。だいいち何が正解で何が間違いかなんて、誰に判断できるだろうか。クリスチャンであるなら、聖書に反しない範囲で、自分の心にかなう選択を自由にしていいはずではないか。そもそも明らかな間違いであれば、間違いだとわかる。わからないのは、とりたてて間違っていないからだ

 なのに牧師の判断が唯一の正解で、あとは全て間違っているとするのは、行き過ぎた二元論だ。自分自身を束縛し、窮屈にさせるだけだ。そんな奴隷制みたいな教会生活を送る必要はない。それにそんな教会は教会とは呼べない、と私は思う。

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