クリスチャンと「この世を楽しむ」こと②

2013年9月12日木曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンと「この世」(現代社会)との関係は、多くの人にとって関心事であろうと思う。

「この世」というと、すぐに「この世の楽しみ」という言葉が連想されるかもしれない。そしてこの「楽しみ」には、罪とか誘惑とかいうニュアンスが含まれているように思える。聖書に「世を愛してはならない」とか「暮らし向きの自慢は神からのものでない」とか書かれている(第一ヨハネ2章)ことも、それに影響しているかもしれない。

 だからだと思うが、「この世」を殊更に嫌悪して、行き過ぎた禁欲主義に陥っている傾向が日本のクリスチャンには少なからずあると思う。ということを以前も書いた。

 クリスチャンとて、宙に浮いて生活している訳ではない。少なくともこの肉体は、神の御許に行っている訳ではない。「われらの国籍は天にある」というのは信仰の姿勢として持つべきだが、それでも「外国に寄留している」のは間違いない。そこでの暮らしがあるのだから、クリスチャンも「この世」に生きて、そのシステムの中で恩恵に預かっている、というのは間違いない。

 だから「この世」とか表現して、自分とはかけ離れた別世界みたいに言うのは、私は違うと思う(私は教会でも教会外でも、「この世」という表現はしないことにしている)。

 聖書は単に、「世を愛してはならない」と言っているだけだ。憎んだり見下げたりしろとは言っていない。

 ではなぜ禁欲主義に過ぎてしまうのかというと、「この世=罪」という図式になってしまっているからではないかと思う。この世にあるものは何でも罪か誘惑に属している、と曖昧に考えていて(あるいはそのあたりのことを考えていなくて)、本当の罪との区別を付けていないのではないだろうか。

 例えば酒に酔うことはクリスチャンにとって罪だろうが、一般社会では文化とか習慣になっている。それはクリスチャンとして明確にラインを引かなければならないところだと思う。しかし、例えば窃盗はクリスチャンにとって罪だけれど、それは一般社会でも罪だ。不倫はクリスチャンにとって罪だけれど、一般社会でも倫理に反するし社会的制裁を免れない。

「この世」であっても守らなければならないことは沢山あるし、それらはクリスチャンとして「きよく」生きようとする上で、何ら問題にならない。たしかに職場の付き合いとしての酒の場などで困ることもあるが、そのあたりが、クリスチャンとして真剣に取り組むべき、ある意味で戦うべきところだと思う。

「この世」と「罪」の明確な区別をつけようとしないことが、おかしな禁欲主義に繋がっているような気がする。

 この社会には美しいものも素晴らしいものも沢山ある。いろいろな種類の芸術に触れるのも良いことだ。そういったものを「この世を愛してはダメだから」とすべて拒否するのは、「きよさ」でなく単なる「頑なさ」だろうと思う。

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